最近、特に青少年において携帯やネットの規制論が聞かれます。まあたしかにあまり青少年を有害なものに触れさせたくない気持ちはわかりますが、これが年齢を超えた(つまり成人以上の)携帯やネットの規制論全体に繋がってくる危険性があるため、それを警戒している人は多いと思います。児童ポルノ法における単純所持に対しては、「児童売春から子供を守る」ということ自体には賛成しても、それがネットにおける児童ポルノ以外の規制(創作系や極論言論まで)に繋がる危険性を感じている人は多いと思われます(その危険性についてこれだけネットで言われているにもかかわらず対案を出さないどころか全く触れないあたりも、規制推進派の人たちへの不信に繋がっていると思われるのですけど)。
さて、これらの規制問題に関してはもうひとつ。何を持って有害とするのかというところもあります。多くの人は上のように援助交際など犯罪が絡むもの、そして青少年が絡むとそれに加えてアダルト的なものも含むでしょう。しかし、この「有害」の定義があいまいであることも、規制を反対するひとつの理由となっているでしょう。つまり「有害」というものは、人によって違うのにもかかわらず、それの定義もあいまいにすることで、かなり多くのものを規制されてしまうという感じ。
たとえば、ゲームが嫌いな人にとっては、ゲームは有害となり得るでしょう。そしてたとえ戦争映画で反戦メッセージを含むものでも、血みどろのシーンが出てくる場合、それを有害と言う人も出てくるでしょう。ちなみに数年前上映された『バトルロワイヤル』も、ディストピア社会の仕組みに振り回されながらも懸命に生きようとする青少年の物語と読む人もいれば、中学生が殺し合う残酷な物語と見る人もいるでしょう(で、後者のためにR指定入ったと)。いや、こういったものだけではありませんね。とある芸能人が嫌いな人にとっては、それを見るだけでも「有害」なわけですし、とある組織に属している人ならそこへの批判報道は、組織外の人が有用な報道と思ってもその人達にとっては有害と言えるでしょう。極論猫が大嫌いな人にとっては、かわいい猫の写真も「有害」となり得るでしょう。
さて、実は今日は規制論の話ではなくここからが本題。上で書いたように「有害」の定義は人によって異なります。なら、もしかしたらその性質的に有害な情報を流しやすいのは、ネットよりも放送メディアではないかと。これは現状のテレビとネットの状況から考えると「?」と思われるかもしれませんが、考えてみれば別にそんな難しいことではありません。なぜならネットでは一応情報の取捨選択が出来ます。つまり見たくないものを見たくなければ、極力避けることが出来ると。実際、問題となっているような犯罪がらみの掲示板などに行っている人はごく一部でしょう。ただ、放送メディアはその媒体を使えば半ば強制的にその情報を送り込むことが可能です。
たしかに放送では犯罪がらみのことを語ったりするのは規制されていますし、倫理機構(BPO)もあります。しかし先に述べた「有害」というものが個人によって違うのならば、それを全て受け入れていた場合、とても番組は出来ませんし、出来ても面白くも何ともないでしょう。なのである意味最大公約数的なところをとっているのだと思われます。しかし、それだとどうしても個人にとっては有害と思われる情報も与えられてしまうのですよね。
たとえば、家族でテレビを見ている時に、いきなり性的なシーンや下ネタが飛び出て、気まずい雰囲気になったという経験を持っている人は多いのではないでしょうか。つまりその状況では望まれていなかったものなわけですよね。確かに番組内容を見れば回避できる場合もあります。しかし、全部を回避するのは不可能です。2時間ドラマでも普通に濡れ場が出てきますしね(古いけど不意打ち大賞はドラマ『東京ラブストーリー』の「カンチ、セックスしよ」のシーンかな)。まあこれならあとで笑い話にもなり得るでしょうが、もっとまずいものがあります。それはその本人とかかわりのあることが報道される場合。たとえばやる夫のコピペで家族でテレビを見ていたらニートの報道特集や、無職が家族を殺したニュースを見て気まずくなるAAがありますが、そんな感じ。(おまけ:2ch全AAイラスト化計画)
いや、それ以上に辛いのは、病人にその病気のことを報じている報道を見せている時。こういった報道ではその辛い面がクローズアップされますが、それに患者の人がショックを受ける場合もあるみたいです。で、それを見て隣の人も気まずいと。今なら介護問題を介護の人が見ているとそう思うかも(ふっきれている人ならいいのですけど)。極めつけはドラマなどで同じ病気が出てきて「この病気は死ぬ」とか「助からない」と言われている時の気まずさは相当なものでしょう(特にガンなんて、在宅で闘病している人も多いし)。
このように、たとえ有用な報道であったとしても、それを有害……というとちょっと語弊がありますが「見たくない情報」と思う人はいるわけです。しかしマスメディアはその性質上、それを不特定多数の人に発信してしまうため、回避できないと。ただ、これは現行マスメディアの体質に問題があるというよりは、もはやマスメディアという形態である以上付随してくるものではないでしょうか。
私自身もテレビを見なくなった理由の一つに、このいちいち見たくないものを見ないためというのも理由の一つとしてあります。ドラマや何も得ないバラエティではチャンネルを変えるほうですし、何より音楽聞いていたいし。
つまり、ここまで人間の趣味思考が多様化してしまうと、現在の地上波局のような少しのチャンネルで総合的なジャンルを扱う形態が無理になっているような気がします。しかしだからといって放送の需要はなくなるとは思いません。ならどうなるかと思うと、やはり地上波でもCSのように専門化してくるのかも(もしくはCS系のみになるのかも)と思ったりします。私も、一日中淡々と経済ニュースと天気予報だけ流している局があれば、手持ちぶさたな時とかパソコンをやっている時に安心してつけててもいいと思いますし。実際一人暮らし時代で深夜、料理を作っている時は、CSのニュースチャンネルをずっとつけてましたし。それでも当然望まない情報は入ってくる可能性はありますが、選択できるネットでもそれは同じですし、今よりはだいぶ取捨選択できるようになる気がします。
情報がほとんどなかった時代に比べて、今はネット含め情報過多になっているので、それを得るよりも得ない自由(選択権)のほうが重要なのかもしれません。
◆追記
タイトルをマスメディアから放送メディアに変更。理由は出版系メディアはわりと取捨選択が出来そうだから。
あと、ネットで動画などをテレビ携帯で配信しているサイトはいくつもあるけど、それはわざわざネットの利点(上のようなものだけではなく、時間を選択できるという点)において損をしているのかも。