本を完読していないうちにこれについて書くのはどうかと思ったのですが、本とは微妙に外れた部分でどうしても気になっているところがあるので、もう一度岡田斗司夫氏の「オタクはすでに死んでいる」問題に触れてみようと思います。
私としては『私が岡田斗司夫氏の「オタクはすでに死んでいる」に腹が立たない理由』で書いたように、明らかに自分の属するものと別のところでのことを言われている気がしたので、特に腹が立たないのですよね。しかし、ネット上ではそれなりに怒りの声を聞くことがあります。それは岡田氏の指している(と思われる)オタク第1世代(まあこの区分けがいいかどうかわかりませんが、今日はこれをつかうことにします)に属すると思われる人以外からも。もちろんそこまで考えず、反射的に批判した例もあるでしょう。でも、それだけではないような気がします。そこについて、いろいろ考えてみると、「ああ、感じ方によっては、自分がオタクと思っている人は誰もが怒っても仕方ないな」と思うものがひとつありました。それについて今日は書いてみます。
それは、岡田氏のこの「オタクはすでに死んでいる」と言う言葉が、誰に向けられて書かれたものなのか、ということ。この言葉については、すでに数年前からロフトのライブなどで語られていて、今更感があるというエントリーがあり、それももっともでしょう。
■参考:『オタクは既に死んでいる』への周回遅れの反応こそが「オタクの死」の証明かも
しかし、ロフトのイベント、そして同人誌というのはほとんどの場合、その来場者、読者からして「オタク」に向けられて話されたものだと思います。ならばそれに反論する人はいるにせよ、議論の範疇ですし、その行為自体に怒る人はあまりいないと思います。むしろ、オタク内部に向かって檄をとばしていると好意的に解釈することも出来たでしょう。
しかし、今回の言葉はそれまでと違って、その言葉が誰に発せられたのか、ということが問題ではないかと。つまり、今回は新潮新書という一般書籍の媒体です。しかも、『いつまでもデブと思うなよ』で、非オタクの一般層にもその名が知れ渡った次に出されたものです。となると、これがオタクではなく、一般層に向かって出されたものであることも想定できます。そしてもっとも恐ろしいのは、その言葉が一般層に”だけ”向かって出された言葉ではないかということ。もしそうだった場合、オタクがもっとも忌み嫌う行為のひとつに結びついてしまう可能性が高いわけです。
1989年、日本犯罪史上においてもかなり痛ましい、そしてオタクにとっても迫害の歴史の第一歩となってしまう(というか、マスコミの標的にされてしまうきっかけとなる)「宮崎努連続幼女誘拐殺人事件」が起こります。それ以降のマスコミのオタクバッシングは過激になってゆきます。余談ですが、とあるニュースキャスターがコミケに来て「ここに10万人の宮崎勤がいます」と言ったのは本当か都市伝説かについて以下に調べたことが書かれていたので、参考として。
当時、小学生か中学生であり、オタク文化の意味がほとんどわからなかった私にも、その規整のニュースはを見かけることがありましたその後、有害コミック問題として、妙に少年誌、青年誌からエロ系漫画(ルナ先生、遊人作品など)が急になくなっていった時に「こういうことなのか」と実感しました。オタク第1世代の人ならば、トラウマに近いものを持っている人もそれなりにいると思います。
つまり、岡田氏の言葉に怒っている人は、このことを恐れているのではないかと。つまりは、『いつまでもデブと思うなよ』で一般層にもその知名度を増した岡田氏、その知名度を利用して、この言葉によりオタク抜けを計り、今度は現在のオタクを迫害する側(コメンテーターとか)に回るのではないか、という危惧が、怒る人の中にあるのではないでしょうか。
まあ何も考えず今までのことを新書という媒体に出したとしたら、ある意味岡田氏に不幸が重なったと思います(マイナスは最悪のケースまで想定されるのは人間心理として不思議ではないでしょうし)。しかし、もし本当に非オタクの人間に、元オタクだった人間が「今のオタクは自分たちのような昔のオタクとは違う(だから叩くにせよ何にせよご自由に)」と言っているのだったら、それはオタクの誰もが怒っても仕方ないでしょう。で、本当のことはわかりませんが、そういう受け取り方をしている人もきっといるのではないかと。
でもね、仮にもオタキングを名乗った岡田氏なら、そのへんのオタクの心理ってのをわかっていなかったのかなあというのが疑問なのですよ。まあ、これについてはこの後何らかのコメントを待つしかありませんが。
最後に、1989年(例の事件の後)、宝島別冊として出された『おたくの本』の中に書かれた、故米沢嘉博氏の文章から抜粋。
この本は『おたくの本』なのだそうだ。理解し難く、わからないものに名を与え、扱いやすいものにして商品にしたり、自分とは関係ないものとして切り捨てるという、例のやり方である。
岡田氏が、このコメントに属する人になっていないことを祈ります。