空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

『中二病』は必ずしも悪いものではない

前からネット上ではよく『中二病』という言葉が使われることがあります。これ、ご存じの方も多いと思いますが、もとは伊集院光のラジオで使われていたものなのですよね。

中二病 - Wikipedia

さて、現在ではネットで見る限りこの中二病という言葉、あまり良い意味に使われることはありません。たいていの場合はとある行動を行っている人に対して、非難的な意味で使用されるという感じでしょう。例えば、ドリーマーなことを言っている人に対してとか、浮いている行動をしている人に対して等。まあたしかにそれが周りに迷惑をまき散らすようなものであれば、非難されても仕方ないかもしれません。しかしそうではない場合、他人から見て「恥ずかしいこと」ではあったとしても「悪いこと」とは言えるでしょうか。

ラジオのリスナーならわかると思いますが、これ、当初は自虐のための言葉だったのですよね。つまりは、自分(伊集院光&リスナー)も昔はこうだった、その恥ずかしさをネタとして暴露し、みんなで笑おうというもの。しかし、現在では他人の恥ずかしい行為を叩くための言葉になってしまっているような感じになっています。

以前、『「空気を読めない・読まない」が変化禁止の呪文として使われる危険性』というエントリーにおいて、空気が読めないという言葉が、たとえ正論でもその場を丸く収めるための言葉として使われる危険があると書きました。それと似たようなもので、この言葉も何かひとつ、抜け出そうとする人を叩くための言葉として、使われる危険性があるのではないでしょうか。

例えば、小説を書く、音楽を作るなんて行為は、ある人から見れば「中二病」のように見えるかもしれません。極論、長文のブログを毎日更新するのだって、見る人から見れば中二病と言えるかもしれません。しかし、行動をしないで何が始まるでしょうか。

最近人気のシリーズのひとつ、『やる夫が小説家になるようです』でも書いてましたが(>>349)、作品を作る、なんて行為は多くのものが中二病になり得る要素を含んでいると思うのですよね。しかし、それを書き上げ、そして周りから評価されればそれは作品となります。よく巷で「中二病みたいな〜」と言われる作品もありますが、完成して形となっているならそれは立派な作品ではないでしょうか(もちろん面白いということが前提ですが)。

中島みゆきの『ファイト!』にもあるように(そういえばこの歌もラジオに届いた手紙の話だったっけ)、戦わない人(なにもしない人)は戦う人(何かをしようとする人)のことを笑う傾向があります。だけど何もしないことは、笑われないことでもあると同時に何もなさないことであるとも思うわけですよ。なら、笑われたもの勝ちかなあと。そう考えてみると、中二病と言われたところで、必ずしも悪い意味ではないでしょ?


ま、自分のことではなく、他の人に対して「中二病」という言葉を使うのは、巡り巡って自分を陥れる可能性もあるのかもしれないので、控えた方がよいかもしれませんよということで。