空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

積みゲーや積ん読を死ぬまでに消化するのはたぶん無理と思った話

仕事が一段落ついたので部屋の片付けをしています。その折、買ったはいいけどそのまま放置状態になっているものが結構存在します。つまり積みゲー、積ん読とった「積み」の類いですね。

しかしこれを見て最近思うこと。これら積みゲー、積ん読を消化するのはどのくらいかかるのか。果たして自分が生きているうちにこれらを全部消化出来るのか。

2011-12-27 01.37.31

積み状態になりがちなもの

最近は忙しくて、買っても後回しにしてしまうものが結構存在します。しかし、一番購入数が多いマンガの場合、読むのにたいして時間がかからないので、ほとんどのものは買ったら目を通しています。雑誌掲載のマンガには、捨てるときにはじめて読んだ(そして捨てられなくなった)ってものも存在しますが。

しかし、ゲームがこれが積み率が高い。即時に出来るアクションなどはまだいいのですが、クリアまで腰を据えてやらなきゃいけないようなRPGやアドベンチャーの類は、何時かやろうと思って積んでいるものが多数ありました。溯ればPS2どころかPS1やセガサターンのものまで。PS2の『ヴィーナス&ブレイブス』とはいつかはやりたいと思っていて放置状態。

あと、積ん読は言わずもがなという感じで。最近ではサイクルが早いのか自分が時間の流れを感じるのが早くなってきているのか、読まないで積んでいるうちに文庫化で廉価販売されていることも多いです。

アニメや映画はそこまでは見ないし、多くは配信かレンタルなのでパッケージで買うことは希なのですが、おそらく買っていたらこれらも数時間拘束状態になるわけで積み状態になっていたことは容易に想像出来ます。実際5年前くらいにふと買ったアニメのDVD、それとマンガの限定特典でついてきたようなものについても見事に積み状態になっていますし。

意外とないのが音楽(自分の場合はゲーム音楽が多いですが)。これはここ近年、買うと必ずデジタルプレイヤーのためにエンコードするため、積みはしないのですよね。でもって気が向いた時にふと流しているという感じ。

これらは自分の趣味の割合からのものですので、それぞれの人でケースは全然違うと思いますが、それぞれにおける消費の仕方が積みに影響する面は大きいでしょう。

 

ゲームが積もる理由

振り返って見ると、この積みが増えているのはやはり社会人になった以降なのですよね。学生時代現役だったサターンソフトとか、よくこれだけの時間遊んだなあという記憶がありますし『グランディア』とか『カオスシード』あたりはたぶん60時間は超えてますし、『タクティクスオウガ』はスーファミ、サターン、PSそれぞれで全ルートクリアしたし。しかしそれ以降に腰を据えてそこまで遊んだRPGってほぼないのですよね。やってもたいてい一週クリアで終わりとか。

これは仕事で忙しくなったというのもあります。しかしそれ以上に、積んだものに常に新しいものが出て来てしまい、それに埋もれてしまっていることが大きいと思われます。つまり積んでいるものが上に置かれたもので余計とれなくなる物理的状態が、そのままプレイ自体にも反映されてしまっているような感じ。

更にブログをやっていると、どうしてもその時間分削られてしまうわけで。これについてゲームブログをやっているとゲームをする時間がなくなるというジレンマが生じるということについては昔書きました。

gmdisc.com

あと、認めたくはないですが情熱が下がってきているのもあるでしょうね。たぶんそれは業界云々ではなくて、個人的にトシをとったということなのでしょう。

 

時間が出来たとして積みを崩すか

しかし、いきなり宝くじが当たって働かなくても生きてゆけるようになったとして、これを消化するか、と思ってみると、「たぶんしない」という答えになってしまいました。これから先、何年生きるのかわかりませんが、どうしてもこれらを崩す時間があるように思えないのです。

今までのパターンで、新しいものはどんどん積もってゆきます。その波が止まることはありえないでしょう。さらに、自分の趣味も年齢を経る毎に変わってゆく可能性は高いです。体力的にも。あと、その積んでいるもの自体の時期がずれてしまうこともあります。それは技術的な問題や、そもそも情報が古くなってしまうということなど。本にしてみれば最新の情報が出て来て内容がそぐわなくなっているものもあるでしょうし、ゲームにしてもたぶん今PS初期のゲームを実機でやってもロード時間に耐えられないと思います(その面ではスーファミのほうがまだやれると思う)

書籍の類はたしかに何時か読むかもしれないと思うものもあるのですが、ただいざ読む頃には廉価の文庫や電子書籍が出てそうだともいう感じで。

だけどそれらを無理に崩そうとすると、それを楽しむことより崩すこと自体が目的になってしまい、ただ時間を浪費するだけになってしまうのではないかという恐れもあります。

 

本来楽しむものを選択する必要

こうなるとこれらをどうするか、ということがポイントになります。

自分としてはコレクション的なものはとっておくとしてとしても、もう楽しむ時間がないものは処分していいのかなと思うようになりました。しかしそれは全部破棄するというのではなく、すると強く思っているものはとっておくという感じで(まあいざとなるとその見切りが大変なのですけど)。

一番避けたいのは、積みの上にさらに積まれることで本当に楽しむべきものが隠れてしまうこと。これを避けるためにある程度の選択は必要なのでしょう。

 

「情報」も同じことが言える

しかしこれは実物のみならず、ネットなどの情報でも同じです。ブックマークやはてブ、Pocket登録やEvernoteに入れてたはいいけど、実際には読むどころかその存在を忘れてしまっているものも多数あります。たぶん「○○が便利」というのをチェックしたはいいけど、一生読むこともないものってのはかなり多いのでしょう。そして膨大な情報に本当に有用な、読むべきものが隠れてしまう危険性もあるような気がします。だから「あとで読む」とかしたのは必ずしも全部読む必要はないと思います。

 

「積み」無駄ではなかった

ただ、それを処分するならスルーするとしても、それを購入したり集めたことが無駄だったとは言えません。それは「それを購入した」「それを集めた」という行動をしたが故に引っかかりを無くし、また新たな行動を出来たという面もあるので。実際そうやって集めたものの中から有用なものを引っ張り出したケースも多数あるでしょう。だから積むという行為自体は無駄ではなかったと言えます。もし積みを恐れて集めなかったら、今有用であった何かも手に入らなかった可能性もあるわけですから。

つまり、積むことを恐れてはいけない、だけどそれを捨てることも恐れてはいけないのではないかと思うのです。そう思いつつ、整理をしています。

……決して今まで買ったものの値段を計算して、「ああ、これを買わなきゃ車が、家が……」とか思っちゃいけない。特にオタクの人は。