こんな話題が。
■暇人\(^o^)/速報 「空 気 読 め」 が 日 本 を ダ メ に し た 件
そういえば今では使うと「どんだけ〜」レベルに恥ずかしい「KY」って言葉もありましたね。ちなみに>>37のネタが村上龍の『五分後の世界』と気づくのにちょっとかかりました。
さて、上記エントリーではそれについていろいろな事が書かれていますが、実は私もこれを痛切に感じたことがありました。そしてそれは、このブログの名前にも関係しています。まあ個人的なことでアレですが、ちょっと書きます。
以前、ブログの名前がついたのは「空気を読まないブログ」+「中杜カズサmemo」と書きましたが、実はその裏にはもうひとつ、影の理由がありました。ブログを始めた時はフリーになったばかりの頃でした。それまではいくつかの会社にいたことがありますが、そのうちのひとつの会社で、こんなことがありました。仕事でのとある会議の最中、あまり方向がよろしくないと感じたものに対して意見をしました。まあ、多少自分の待遇寄りのことだっったので、それが正しいかどうかは今でもわかりません。しかし、そこで言われた言葉が「君って、空気読めないよね」。
私の言ったことが正しかったかどうかはわかりません。しかしその意見に対して反論をしてくれれば私も納得したのですが、その「空気読めない」という言葉は、その意見に対して何も組み立てていないばかりか、こちらの意見をも全て無効化してしまうものでした。まあ今、本当に熱心語る気があれば、そこから空気を読まないという言葉の問題から徹底的に反論するでしょうが、なんかもう「ああ、そうなんだな、ここは」と思ってしまい、何も言う気がなくなりました(ちなみに何かに対して「怒り」を持っている時は、まだ期待をそれに対して持っているけど、本当に期待がなくなった時には怒る気さえなくすというのもその時に実感しました)。
で、このブログの前身の「空気を読まないブログ」を作る時、ブログで相手に読みやすくしたり、人気を集めるためにはどこかのジャンル、たとえばマンガとかゲームとかに特化した方がよいというのは昔から言われてましたが、それとは逆に色々書いてみたかったというのがあって、それを「空気読まない」としてみました(ま、同時に「ゲームミュージックなブログ」作って、そっちで特化していたし)。まあその時はあまり考えずに書いていたのですが、このはてなに移転するにあたって、新しい名前を考える時、前述の件を思い出し、そこで「空気読まない」と言われるくらいなら、自称してやろうということで「空気を読まない中杜カズサ」というくっつけ方にしました。まあぶっちゃけ開き直りですね。とはいっても怨嗟を持っていたと言うよりは単なる皮肉みたいなものですね。
で、前のことがあってしばらく「空気を読まない・読めてない」という言葉について考えたこと。
まず、何でこの「空気読めてない」という言葉が使われるのか。これはこの「空気読めてない」を言った人が、その言われた人に対して、何かしら迷惑を受けたと感じたからと言えます。しかしそれがただの迷惑行為と違うところは、迷惑を受けたのが周りの大勢だと言うところ。おそらく多くの人が「空気を読まない」と言われて黙ってしまいがちなのは、イコール「場の雰囲気を乱す(迷惑もの)」的なものだと感じているが故だと思われます。そして、実際多くの人が思っている迷惑行為をいさめるために「空気読め」と言われることもあるでしょう。
しかし、ここで疑問なのは「じゃあ『空気』って何よ」ということ。まあだいたいは「場の雰囲気」という意味でしょうが、その空気を読めないと言われる人は、その場の雰囲気に満足していないということでしょう。つまり、その空気はあくまである人(「空気読め」と言った人)にとって都合のいい空気であって、全員がそうだとは言えないわけです。極論、あらかじめ自分に都合のいい「空気」を作っておいて、それを破るものを「空気読めよ」という言葉で黙らせることも出来てしまうわけです。この場合、「空気を読め」という単語は思考停止をさせてしまう呪文に使われるという危険をはらむのではないかと。
その空気はその場の全員にとって都合のいいものとは言えないでしょう。極論、1人だけに都合のいい「空気」でも、それが力を持っているとそれが場の共通的な空気みたいになってしまうと。つまり「空気」は誰かによって作り出されている場合もあるのではないかと。それを全体の意見のように「空気読め」と言われかねないのにも危険が高いと思われます。極論、その「空気読めよ」と言った人が「空気」を勘違いしていて、自分が一番その場にそぐわない場合ってのも存在するかもしれません。
つまり個人が迷惑だと感じる行為(全体にとっては迷惑ではなくても)と全体の迷惑行為をすべて一緒くたにして、意見の封殺を一緒にしてしまうのが容易になる「空気読め」は、かなり危険な言葉だと思うわけです。この便利な呪文は場の力の強い人、声の大きい人に論拠を与えるだけではないかと。しかもこの言葉は「人に迷惑をかけたくない」という心理を利用していて行為を封殺する上、発言側は迷惑行為をいさめるように使われていると思われているのでたちが悪いと。
他の行為を黙らせる危険なものだと思うのですよね。故にこの言葉を使う時、もしくは使われた時は本当にそれが自分にとって、その場にとって正しいのか、よく考えなくてはいけないと思います。つか、空気って自分から読むのはともかく、そもそも人に強制されるものではないと思うので。