もし、このサイト(及び関連ブログWebサービス)が、今日のエントリー以降、いきなり更新が行われなくなったら、みなさんはどう思うでしょうか。おそらく、「私に何かあった」と思うのではないかと。もし、更新ペースがまちまちになっていたとかだったら、「ああ、サボっているんだな」と推測されるかもしれません。しかし、いきなりだったら、何か不測の事態が起きたと思われても不思議ではないでしょう。
とはいえ、これは毎日更新のサイトではなくても同じで、ネットだけではそのサイトの管理人が生きているか、死んでいるかというのはわからないのですよよね。唯一それを知る手段は、更新だけで。
さて、この「生きている」でも「死んでいる」でもない状態と言われて、私のような中途半端な知識の持ち主でも「シュレディンガーの猫」を思いつくでしょう。
つまり、シュレディンガーの猫風に例えると、サイト管理人は常にネットという空間に置いてあるひとつの箱の中におり、その箱の中の現実には、毒物発生装置もあると。そしてそれが作動しているかどうかは、ネット空間からは認識できないというわけですね。そしてその「生きている」という存在を示す更新は、さしずめ猫の鳴き声でしょうか*1。
■発生確率について参考?:あらゆる事象は可能か不可能かの二通りしかない。よってあらゆる確率は2分の1である。
つまりは、更新がなされた瞬間だけ、そのサイトの管理人は「生きている」ことになりますが、他の状態はすべて「死んでいる」とも言えるのではないかと。例えば、私がこの更新をした後、いきなりデスノートに名前を書かれたからといって、ネット上においてはその死は「現実として」公表されない限り、存在し得ないわけです。もちろん逆も言えます。そしていきなり更新が停止して、数週間後に知人が「このサイトの管理人は亡くなりました」という現実を知るものの書き込みがあって、やっと死を認識するということもよくあります。その際、残されたサイトは妙な郷愁を感じますよね。
つまりネットの空間というのは、人間の死をそのものだけでは証明できないのかもしれません。いや、こう考えるとある意味ネットという空間には「死」という概念(場合によっては「生」も)が、ないのかなあとも思えます。
そう言えば昔『カウボーイビバップ』というアニメで、人間の精神をネット空間に移して、永遠を得るという(エセ)宗教が出てきましたが、ある意味においては説得力を持っていたのかもと思います。
ちなみに、こんなことを書くと死亡フラグが立った感じがしますが、このサイトはまだまだ続きます。おそらく明日、私が死なない限り。……いや、このフリで更新停止したら、ネタとしては面白そうだな(さすがにシャレにならないのでやりませんけどね)。
◆追記
よく考えてみると「Twitter」ってのは、その「生」を頻繁に発信できる(しやすい)という点において、すごいものかもしれないなんて思った(まあメッセンジャーもそうだけど、Twitterのほうがそれを知らせる範囲が広いしね)。
*1:このへんあくまで大ざっぱな例えなので、細かいところは飲み込んでください。