空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

ドラマ視聴率でいまだ俳優女優に主因があるように言われるのは何故か

 先日NHKの大河ドラマ『花燃ゆ』が最終回を迎えまして、その視聴率が12.0%と史上最低タイに低かったことが報じられております。

news.livedoor.com

このドラマに限りませんけど、ドラマの視聴率が高かった、もしくは低かった場合、よくそれに出演、主に主演をしている俳優女優に注目され、そこが原因で視聴率が低かったように語られるケースはよくあります。別にこれは大河ドラマに限ったことではなく、他のドラマや映画などでも。

ただ、こういった風潮に違和感を持つ方は多いと思われます。つまり視聴率が低かったのは女優、俳優のせいではなく、純粋に話が面白くなかったからと。

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何故か俳優女優の持っている視聴率のせいにされる傾向

『花燃ゆ』を例にとれば、歴史をまあ多少は知っているつもりの自分でさえ、発表前は「えっ、誰?」と思った杉文(楫取美和子)を主役に、しかも幕末期の動乱にあたっては志士や幕府、公家、新撰組と違ってどうしても客観的立場に為らざるを得ない「久坂玄瑞の妻」という立場という企画自体がかなりの無理ゲーなところから始まり、それでも脚本の切り口が予想を上回ればどうにかなったもののそれも出来ず。結局「定番の幕末もの」としても「新機軸の幕末もの(主に長州の描かれ方)」もしくは「女性視点の歴史もの」としても需要を逃した結果だったのではと推測されます。

この出来についてはもちろん見た人毎の感想でよいのであり、これがおもしろいと思ったのであれば、それは否定するものでは全くありません。

しかし問題は、それの原因が俳優が、女優が数字を持っていなかったという感じで(主に芸能記事において)まず最初に語られることが多いことについて大きな違和感を持つのです。

 

少なくともこの話を他の誰かがやって視聴率が上がったかとなると、多少の変動はあったかもしれませんが、ほとんど意味はなかったと考えます。

ここ近年で視聴率が飛び抜けて高く評判になったものといえば『家政婦のミタ』や『半沢直樹』がありますが、どちらも私の記憶している限りでは、事前の評判はそこまで高いものではありませんでした。しかしドラマの最中でそのストーリーが話題になり、最終回に向けて高視聴率を叩き出したという感じでした。

普通に考えれば、そんな「ドラマにはストーリーが重要」なんてことは素人からしてもわかることです。にもかかわらず、いまだに何故かこの手の芸能報道ではドラマのそういった制作現場の要因、すなわちストーリーや監督、そもそもの題材より、出演者に全ての原因があるかのごとく書かれることが多いように見受けられます。

ちなみに12月の記事。

www.excite.co.jp

お見事なまでに逆のこと書いてあります。ただネットの反応を見る限り(記事にもありますが)、そもそも脚本がよろしくないとの声が大きいように見受けられます。

にもかかわらず、タイトルは出演者のことについて。そしてこういった結果で「この人は『視聴率を持っている(持っていない)』」と書かれることも多いです。

さて、どうしてこうなるのか、ちょっと考えてみました。

いまだに「俳優が全て幻想」が業界に残っている

かつて、それに出演する俳優や女優が視聴率、もしくは映画等なら観客動員数を大きく動かすという時代はありました。思いつくところでは2000年前後の木村拓也、さらに昭和になれば石原裕次郎や夏目雅子など。これはテレビドラマ以前の映画の時代からいたと思われます。そしてそういうのは映画会社の看板役者とか女優と言われたのでしょう。

さて、今それがテレビや映画にもあるかと言われると、もちろんないとは言えないでしょう。しかし、それは昔よりもかなり縮小、分散してしまったと思われます。要因はいろいろありますが、かつての皆テレビが共通の娯楽で国民的アイドルは皆知っているという時代ではなくなり、媒体もネットなどで多様化して、趣味も多様、分散化したが故。

今でも一応アイドルなどを出せば注目は浴びますが、それで注目するのはごく限られた範囲のみでしょうし、全体を押し上げる力はないに等しいでしょう。まあリピートや複数カウントが可能な映画やCD購入ならともかく、ひとり(一世帯)1が原則の視聴率じゃそれが出来ないですし。

とはいえそもそも昔からだってキャストよりもその話の出来が評価されていたと思います。どんな人気の俳優、女優を使ったところで、コケた映画は非常に数多く存在します。

にもかかわらず、その「俳優女優が成績を左右する」という、一種神話というか幻想的なものが残っているような気がします。

 

「天狗の仕業」

しかし、制作に詳しい業界の人が本気でそう信じ込んでいるのかというと、かなり疑問に思えます。

そこから推測すると、実は本気では視聴率における俳優女優の割合なんて信じている人ごくわずかであり、それ以外の内容が重要とわかっていても、あえて「あるように思わせる必要があり、そうしている」ようにも見えます。

以前、「天狗の仕業」ということでエントリーを書きました。

nakamorikzs.net

つまり理由が説明しにくかったりあまりおおっぴらにしたくないものを「天狗の仕業」と架空のもののせいにしてしまい、責任を転嫁すると。

これにもそれが当てはまりそうな気がします。そうすれば説明をつける人(クライアントなど)に説明がつきやすいし、事によってはその人に責任転嫁できると。

もしくは、現場で既に失われてしまった制作力不足を隠すためのいい訳という可能性も。

 

 報道的な理由

あと、報道的な理由もあるのではないかと。

これらの話題が出てくるのはたいてい芸能報道やワイドショーの記事ですけど、どこがどう悪いと説明が難しいストーリー展開を説明したり、よく名前も知らないスタッフの誰に原因があるか説明するより、名前が知れている俳優女優を出してそこに原因があるかやったほうが読者のウケがとれるという感じ。

 

本気で俳優女優のせいと思いこんでいたらそれが一番救いがなさそう

どれが理由かわかりませんが、こんな感じでいまだにドラマの視聴率の主因がその内容より俳優女優にあるように受け取られる記事が出るのだと思われます。

ただ、記事だったらまあわかってやっていることだし、天狗の仕業も責任転嫁ではあるもののわかってやっていることで、ドラマには女優俳優の持っているとされる数字なんかよりも、内容が大切、というのが作り手の側にもわかっているでしょう。

しかし、本気で現代でもさも視聴率の主因が俳優女優であり、大半の原因がそこにあると作る側が思い込んでいたら、それは危険でしょうね。ありえない、と思いたいですけど、『花燃ゆ』でイケメン時代劇とか、途中アイドル大奥みたいなのとか展開していたあたり、そういう可能性も捨てきれないあたりがなんとも。

 

たぶん今がテレビの変革期、もしくは衰退前夜

私見ですが、今のテレビドラマ、もしくはテレビというのは、かつての栄光からの衰退で、これからどう切替えてゆくかという混迷期のように思えます。それはかつて映画会社が六社協定時代の最盛期から衰退期にあたって、にっかつや大映が潰れていったように。

ドラマだけに限りませんが、コンテンツの何が人を惹きつけるのかの本質を見失ったまま突き進むようなところは、衰退の運命を辿ってしまうでしょう。

ここから淘汰はあれど映画のように新たな段階になり、適応した形で存続するか、それとも全滅衰退してゆくか、今がそういった時代の節目かもしれないと思います。

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