空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

『若者の○○離れ』という「天狗の仕業」

このようなニュースが。

■ローリング・ストーンズって誰? サントリーの誤算 - MSN産経west ※リンク切れ

以前にも「若者の○○離れ」については書きましたが、もう一定時期にニュースネタを提供してくれる素材になっちゃってますね。

■参考:
nakamorikzs.net
nakamorikzs.net

で、はてブを見てみると、lastlineさんのエントリーが挙がっていました。
d.hatena.ne.jp

さて、何故このように出る度に批判なり嘲笑なりされるのに、何度も何度も何度も何度も「若者の○○離れ」が出てくるのかというのをしばし考えていると、一つ思いついたものがありました。それは「若者の○○離れ」というのは、実は「天狗の仕業」と同じ使われ方をしているのではないかということ。

「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ!」

何故天狗の仕業なのか……というところからつらつら書こうとして検索かけていたら、上記のlastlineさんがすでに4年前に書いていた文章が出てきてしまいました。民俗的なところなど自分が書くより絶対詳しいのでそちらをお読みください。
d.hatena.ne.jp

ま、でもせっかくこの話の途中で使おうと用意した画像がもったいないので貼っときます。

つまるところ、その場にいる人間に理由がつかないものに対して、原因を天狗という未知の存在になすりつけてしまう言葉が「天狗の仕業」だったのではと。上のエントリーでは「漫画、アニメ、ゲームのせい」においてその「天狗の仕業」が使われていますが、それが「若者の○○離れ」においても同じような感じで使われているのではないかということです。そして現代では天狗の仕業と言っても誰も信じないか霊感商法と思われるだけなので、それの代替が「漫画、アニメ、ゲームのせい」だったり「若者の○○離れ」ではないかと。

天狗という責任転嫁の存在

さて、何故古来から天狗の仕業にされてしまうのか。もちろん、原因が分からないもののモヤモヤをたとえその根拠が希薄なものでも一定の所に落ち着けて、スッキリしようという心理もあると思います。しかし「若者の○○離れ」が使われる場合、それより重要な要素があります。それはストレートに言ってしまうと責任回避。

古来でも、未知のことが起こると、多くの場合その出来事に対しての責任が誰かに生じます。起こったことの責任や、これからそれを回避するための責任など。しかし、それを「天狗のせい」、すなわち人間に力が及ばない存在のせいにしてしまえば、「じゃあしょうがない」ということで、その問題を解決しないままでも、その所属するコミュニティのメンバーを納得させて、責任の所在を曖昧にしたまま対策を終了させてしまうことが出来る効果があったのではないかと。
ちなみに「神隠し」というのもある意味似たような側面があるでしょう。すなわち、共同体から誰かが消えてしまう。そうするとその行為が消えた人の自発的なもの(つまりそこからの逃亡)であっても、外部的な要因(人さらいなど)であっても、そのことに対して責任を負う人間が必ず生まれてきます。しかし神様が連れ去ったことにしてしまえば、じゃあしょうがないということでそれに対して責任を負う人を不在(あえていえば神様のせい)にしてしまってもよいという感じにすると。

それと全く同じことが「若者の○○離れ」でも行われているとしたらどうでしょうか。すなわち何かの製品(たいてい商業的失敗で使われる言葉ですしね)が失敗したとしても「若者の○○離れ」という、そこの所属する人にとって未知な「天狗」のせいにしてしまえば、「しょうがない」と責任を回避することが出来る、と、そこにいる人は信じていると。

本当に誰もが天狗のせいと思っていたのか

しかしここで思うのは、天狗の仕業にしろ、若者の○○離れにしろ、本当にその組織に属する人が神様や若者の仕業と信じて疑ってなかったかということ。実は信じていない人もいた、いや、極論全員が信じていなかったこともあり得ます。しかし上に書いたように責任回避の方法として天狗の仕業なり若者の○○離れが使われる可能性がある以上、実は本当の原因は他にあると思っていても、その場では言わないようにしているという状況になっていないかと。

余談ですが、もし、ゲームなりマンガなりアニメなりの害悪論を唱えている人も同じようにその責任回避の心理が働いていると仮定するなら、はたしてそれは「誰か」が「どんな」責任から逃れているのかなあと思ったりします。


このように考えると、度々「若者の○○離れ」と言われ、そしてそれが若者(いや若者だけじゃないだろうけど)から見てアホっぽく見えるのは納得できます。だってそれは責任回避の言い訳というだけで、その人達が本気で若者が離れているせいと思っているとも限らないのですから。

ま、どっちにしろ天狗の仕業にしたところで、現代においては昔のムラ社会とは違い、多くの組織では閉鎖的状況では存在できないのですし(企業なんて特に)自己完結で済ませるわけはないのですから、どこかしらで「天狗でもどうでもいいからお前らの責任は?」と言う存在が出てくるでしょうけどね。株主とか。