空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

アシモが今すぐに「心」を持つロボットになる方法

1月3日の読売新聞に、「知性、深遠なる能力」と題してロボットの知性の現状と未来みたいな感じの記事が書かれていました。近年、たしかにロボット関係の急成長は目を見張るものがあります。それはアシモなどを例に取るまでもないでしょう。思考能力的には自発的なものを生み出すときがそのうちやってくるのかもしれません。

では、それらが「心」を持つ日というのはいつくるのでしょうか*1

実は、今日からでもすぐにロボットが「心」を持つ方法があります。それは『人間が信じること』。

……はい、ここでドン引きな人もいると思いますが、もうちょっとおつきあいください。何もこれはドリーマー的発想とばかりは言えないのです。

では「ロボットが心を持つ」というのを別の方向から考えましょう。「ロボットが心を持つ日はいつか」。これは言い換えれば「人間がロボットに心を持つと認識した日から」となります。なぜならたとえ技術が進化して、人間と全く同じロボットが作れるようになったとしても、結局は今から繋がる技術の延長線上でしかないのです。つまりそこで認識されるものはどんなに人間らしい反応をしたところでそれは「心を持つもの」ではなくて「限りなく心を持っているように動くもの」としか認識されないはずです。別にこれは人の形をしていないでも同じことで、おそらくはロボットに組み込まれるより先に、パソコン上での人工知能の開発が行われていくでしょうが、どれだけ自分の思考で導き出すというプロセスが可能になれば、それは「心」を持つと認識されるのでしょうか。おそらく、人間がそれを心のない、人の作ったもの、データの集まりとして認識している限りは、永久に心を持つ(と認識される)日は来ないでしょう。

それはたとえ客観的に見て人間よりも深い思考を重ね、感情が生まれていたとしても同じです。それはやはり人間にわからないから。いや、そもそも人間自体、人間以外、いや極論自分以外に「心」があると証明する手段はあるでしょうか? 答えはNOでしょう。

ならば何故多くの人間は、自分以外の人間に「心」があるとしているのか。それは、自分がそう思っているからでしょう。これは動物も同じです。では、虫や微生物に心があるのか。これも人によって違うでしょう。たしかにそれらは生物学的に行動をします。ただそれに「心」があるかは、判断が分かれるところでしょう。というか、そこを気にしていたら人間生活に支障をきたしそうなので、あえて考えないようにしている場合も多いのではないかと。それは植物でも同じく。


では、いつになったらアシモなどのロボットが心を持つのか。それについては昔、こんなエントリーを書いたことがあります

はたしてドラえもんに「心」はあるのか

ドラえもんやキテレツ大百科の世界では、まずそれをロボットだからといって、普通に人間と同じように接しています。それは、周りの人がドラえもんやコロ助を人間と同じような「心」のある存在として見ているからでしょう。これはもちろんマンガやアニメの中のことですが、この関係自体には現実世界でも同じことが言えるのではないでしょうか。つまり周りの人間が「ロボットに心はある」と思えば、そのロボットは技術的レベルを問わずに(前に言ったように、微生物でも「心」があるとみなせばそれは存在することになるので)、そこに「心」が生じることになります。

そう、「人間がロボットに心があると認識した日」がロボットに心が生まれる日になるのです。ということは、今日から人間がアシモに「心」があると信じれば、そこには心が存在することになるのではないでしょうか。そして逆に言えば、信じなければいつまで経ってもロボットに「心」は生まれないことになります。

つまりこういった「心」の問題は技術ではなくて、あくまで人間の内的なもののような気がします。なので、インターネット上に落ちている人工知能システムにも、もしかしたらそのソースの中に「心」が生まれていると言えるかもしれません。


そういえば、坂口憲二が出ている缶コーヒーのCMで、工場の機械に軽く触ると、「朋子に触るな」と詰め寄られるシーンがありますが(このページの広告紹介>CMから見られるみたいです)、これも上の思考をふまえた上でのことだと思うとちょっと見方が変わったり。ですが、現代ではやっぱりそう思うのは変わり者扱いなんですよね。となると、やっぱり心の存在でさえ「社会的(現実生活的)には」多数決の原理で決まるのかなと思ってしまいます。


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◆参考

人の創りしものに心はあるのかという問題へのひとつの回答〜『国立博物館物語』

*1:実はこの新聞記事では「『われ思うロボット』遠い夢」と題して哲学する日は来るかもしれないけど、まだ人間は大腸菌でさえ作れていないという形で触れられていたのですが、哲学に「心」が必要なのかとなるとまたかなり考えないといけないので、ここではちょっと「心」に絞ってとりあげようと思います。