ネットなどで情報に触れる時意識しておくべき大切なこと

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※この文章は2012年7月に書いたものを、加筆修正したものです。見返して当時と状況変わってないよなあと思ったのでもう一度。

最近ネットを見ていると、「ネットリテラシー」という言葉を目にすることが多くなってきました。この言葉が度々出される一因は、近年(に始まったことでもないですが)ネット上で誤情報や確認もとれてないのにさも実際にあったと確定したように喧伝される情報、すなわち「ネットデマ」が氾濫するようになったことでしょう。

しかしこれらデマの発信元や伝達経過などを見ていると、ネットにおける情報、ひいては情報というもの全てに触れる時に基本的な思考を知らないか、忘れているのかなと思われることがよくあります。というわけで、今日はそんな情報を受け取る時に、意識しておかなければいけないと思われることについて。

ネットにおけるほぼすべての情報には人の意思が介在する

ネットというものである以上、多くの場合サイトなりブログなりで文章読むなりイラストを見るなりして情報を得ます。最近ではWebラジオなどの音声やYouTube、ニコニコ動画などの動画サイトから情報を得ることもあるでしょう。
それら、とりわけマスメディアの発するニュースなどは、そこにあった出来事がそのままダイレクトに自分まで届いていると思い込んでしまうことがあるでしょう。しかし、ここで肝心なことがあります。それは、

ネットにおける「情報」は、ほとんどの場合誰かの意思を介して伝えられる

ということ。

どういうことか、例を挙げればわかりやすいでしょう。たとえばニュースの場合、その元の情報、たとえば事件があったとして、その現場を直接ネットで見られるわけではありません。それが視聴者に伝わるまでには、記者などが取材し、そして原稿を書き、それからネットに公開されるというプロセスを辿ります。これ以外にも警察などから発表される場合などもありますが、その情報をまとめ、そして文字なり動画という形にする必要があります。

さて、人を挟むということはどういうことか。それは必ずその人の意思を介するということです。文章とする以上、情報はその人の見方における要素が必ず挟まるのです。人間は同じものを見ても全員が全員同じように感じるわけではありません。そこには必ず人の意思が存在し得るのです。

例えば、AとBがケンカをした傷害事件があったとします。
そこで嘘をついていなくても「Aが殴りかかった」というのをメインにするのと、「Bが殴った傷がもとでAが重症」というのをメインにするのでは、単純に見た読者はどちらが悪いのか正反対の印象を受ける可能性があります。また、情報のある側面を伝えないことで印象が大きく変わることもあり得ます。

このようにニュースソースとして伝える場合、どうしても文章を記述し、そして編集する必要が生じるため、その結果その人の意思において元の情報から見方が変わってしまったり、部分(場合によっては大切なところ)が削れてしまうことがあり得るわけです。客観的に伝えることが求められるニュースの場合でもそうですから、ブログなど個人が意見を表明するような場の場合、当然その文章に書き手の意図が介在しています。新聞の社説だってそうですね。社の説なのですから思想が反映されまくっています。

もちろんこのブログだってそうであり、文章表現や情報の選択などにおいて私の意図がどうしても入り込みます。勿論客観的に伝える必要があることは、気をつけて出来るだけそう努めるようにしていますが。

たとえ生放送でも写し方の意図が存在する

なら文字ではなく、テレビなどの生放送ではどうかとなりますが、これも報じ方によって印象が大きく変わる可能性があります。いや、場合によってはこちらのほうが大きいかもしれません。キャスターの読み上げる原稿はもちろんですが、カメラの写し方、途中に挿入させる映像、そして音楽などによって、受け取り手の印象を変えることが出来てしまします。音楽については以前書いたので、宜しければ以下のエントリーを。

生放送でもこれですから、編集が可能な録画だと言うまでもありませんね。
これらを極力廃して、情報をそのまま伝えようとすると、選挙における政見放送、もしくは定点カメラのようなものになるでしょう。とはいえここでさえカメラの向きやライティング(顔の下から当てるだけでも印象が変わるのは、稲川淳二の怪談映像をみればわかるかと)などにより印象が変わってしまう可能性も出て来るのですけどね。

意図的伝達におけるその仲介者の責任

上で書いて来た例は、受け取り手に見やすくする関係や、その媒体の制約(掲載スペースや放映時間など)の関係上、変えるつもりがなくてもそうなってしまうことがよくあります。しかし中にはこの伝聞の中にわざと自分の意図を挟み込み、そして誘導する人がいます。メディアでいうところのいわゆる「偏向報道」「意図的伝達」というやつですね。

そしてこれはタチが悪いことに、実際は事実を正確に表しておらず、意図的な誘導が行われているのに「嘘は言っていない」という形をとっていることが多々あります。顕著なのは「情報筋が伝えた」というように、自分も聞いてきた形をとってそのまま伝えているだけで、自分には罪がないよというような形。とはいえ最近これはメディアだけではなく、ネットでも多用されますね(その伝えた人が本当にいるかもわかりませんが)。

あと、情報を選択する、つまり都合のいい情報だけを伝えて、都合の悪いものを隠蔽することで、嘘はついていないけど印象を操作するという方法もあったりします。

■参考

ですけど私は思います。人の手がそこで介在している以上、真偽の判断などリテラシーに関わることをするということが出来るはずですし、その伝えることにも同じく責任が伴うのではと。少なくともメディアは情報を何らかの形で手を加えることが出来る以上、そこに伝えることによりデマなど不利益が生じた場合、伝聞だからというのではなく、影響の責任も伴うものだと思われます。

こう思ったのは一部の2chまとめブログがデマをおそらく意図的に(少し確認すればわかるので)振りまいているのに、それが2chのものだからという感じで言い逃れをして、デマが放置されている現状を見たからです(まとめブログに限りませんけど)。
でも、上記のように介在に意思を挟む以上(少なくとも編集して色つけたりしているわけで)その言い訳は出来ないのではと思うのですね。最低でもデマの訂正はすることを強く望みます。

悪意がない場合もデマは流布することがあり得る

このような情報を伝える側の悪意はよく言われるところです。しかし誤情報だからといってそれを伝えた人に悪意がないようなケースもあり、またここも問題を難しくしています。以下は、ネット時代の遙か前に起こった、誰も悪意がないのに結果として大きなデマになってしまった例。

■参考:豊川信用金庫事件 – Wikipedia

意図的、悪質な誤情報や情報の捏造、デマは非難されるべきでしょうが、このような悪意がないのにデマの流布に荷担してしまうケースもあるので、一概に責められないようなケースもありますということで。それらについては訂正をきちんとすれば、悪意のあるものじゃない限りはある程度仕方がないものも多いと思っています。人間はミスをする生き物ですし、私だって当然ミスをします。そしてそこから次はしないように学ぶものがあると思うので。あと、そういうケースでも責めてしまうと、訂正をしたいのに責められるのが怖くて名前が出て来なくなり、「黙り得」的になってしまう危険性もありますので。

まあミスは起こるものとしても、可能な限り確認する癖はつけたほうがよいでしょう。

情報は、自分に伝わるまでに誰かの手を介在している可能性を常に考慮すべき

今回書いてきたことはよく考えれば誰もがすでに頭の中にあることかもしれません。しかしながら、普段情報社会の中で生きていると、そのひとつひとつが自然とあるのが当たり前のように思えてきて、つい誰かの手が介在している、ひいてはそれが真実かどうかを検証するという癖が抜けてしまいがちです。だからといって全部を鵜呑みにしていると、最近ネットで問題になる「ネットデマ」を流布してしまう手助けをしてしまうことになりかねません。

故に、このような意識は常に頭の片隅に置いておき、何か不自然さを感じたら、

どうやってその情報が情報源から自分までに伝わったのか。
その情報伝達プロセスにおいて、情報が変わって得をする誰かの意図によりねじ曲げられていないか。
誰かの悪意的ねじ曲げがなくても、伝達過程によって真実と異なるものとなっていないか。

ということを考慮する癖をつけて、真偽を疑ってみることも必要ではないかと思われます(できれば中高生あたりのネット教育としてで教えたい気がします)。

(リダイレクト)

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