空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

文章力とかコミュ力みたいな「○○力」って結構後づけだよなという話

 最近、文章力、コミュ力、女子力、若者力、老人力のような「○○力」というものを耳にすることが多くなってきました。詳しく調べていないのでどれだけあるかわかりませんけど、ざっとネットを見回した感じでは、コミュ力(コミュニケーション力)、女子力、男子力、老人力、若者力、父親力、母親力、文章力、画力、要約力、人間力、読解力、日本語力、イメージ力、語彙力、仕事力、治癒力、免疫力、組織力、集中力、上司力、部下力、会計力、思考力、実践力、承認力、竹内力、長州力なんてものがあります。最後2つまちがい。

このようにあらゆる分野であるのではないかと思われるほど何かの折に出てきますね。主に「○○力をつける」「○○力を鍛える」みたいな感じで実用書の新刊とかはてブに出てくる記事とかで。ちなみに上からの抽出は検索では文字指定しにくいのでAmazonの実用書コーナー見回したらたくさん出てきたものです。

しかし、こういった「○○力」と言われているものの中には、それいったい何なのか、と思うことがあります。

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定義、指標がない「○○力」も多い

「体力」「学力」や、それに付随する言語力、数学力などといったものは、それ自体がある程度数値化されており、そのレベルや上昇力というのがわかるようになっています。しかしそれらと比べて「文章力」「コミュ力」「女子力」などというものは何なのでしょう。

しかし「文章力」においても「コミュ力」においても「女子力」「若者力」においても指標はありません。前述のように実用書とかで使われて、仕事上でさも重要そうに見える「組織力」「仕事力」に至っても、少し考えればその指標はありません。正直かなり曖昧な概念ではないかと思います。

とはいえ、「なんとなく言っていることは理解出来なくもない」というところがあるのですよね。というのはその成功例が提示されていることが多いから。つまりは文章力ならうまい文章を書く人が「文章力」を持っているとされ、コミュニケーションをうまくとれる人が「コミュ力」を持っているとされるなど。女子や若者、老人など何かのカテゴリでうまくいっている人を例示して「○○力」があるという感じ。

 

はじめに「○○力」ありき、ではないのでは

しかし実際のところ、感覚としてわかっても、実際の指標はない「○○力」というのは多く存在します。何が出来たらそれがあり、何ができなかったらないのか。その絶対的基準は?また人によって受け取り方の違うのものはどうなのか、など。コミュ力があるように見えて、もしくは自分が思っていて、実態は周りにウザがられたり嫌われているようなケースだってあるわけですので。

そこで思うに、 これらの「○○力」の中には、その分野においてそれが上手く出来る人がいる→その人に対して「○○力がある」と定義づける→「○○力」が分離されて一つの言葉として使われる、という後づけの感じになっているというものが多く含まれているのではないでしょうか。つまり「○○力」があるからそれがうまくできるようになる、のではなく、それがうまくできているから「○○力」がある、というふうな感じで。

 

イメージではなく実際にあるものと混同される事が問題

とはいえ昔からこういう定義が曖昧な「○○力」がなかったか、というとそんなことはないと思われます。たとえば「精神力」というものは昔から言われていますが、それの明確な定義、指標はありません。ただ精神の強い「とみなされる」人がいて、その人が「精神力」を持っているというような感じで使われてきた感じはあります。つまり喩えというかイメージ的に使われることに関しては、別によくあることですし、異論はありません。

しかし問題なのは、それが慣用表現ではなく、さも「体力」「学力」のような数値として存在しているように語られることなのですよね(まあそもそも「学力」というか「知力」でさえ、テストなどで計れる思考のレベルというのはごく一部の定義内でしかないため、それが完全に数値化出来ているとは言えないですけど)。

つまり、実は実態のない、イメージ的な「○○力」が、「体力」「学力」みたいな一応の指標があるものと混同、同一化されて、さもそれに指標や評価基準があるとされるなら、それには疑問を呈します。

最近、企業が求める人材で「コミュ力がある人」というのをよく耳にしますが、それは何なのか、というのも結構疑問に思います。イメージ、つまり商談で成約が取れるような人が来るといいなあ的な感じで語られるのならまだいいのですが、それが実際に評価基準になっている、もしくはそれが数値的なものと同じように受け止めた人が評価基準にしてきたら、それはどうかなと思う訳です。

現在でも「『○○力』が身につく」的な書籍やセミナーの類は数多くあります。それらも一人歩きして、ニセ科学のごとく、それが一人歩きしないかという心配があります。最終的にはこの薬を飲めば、この洗脳プログラムを受ければ○○力が上がる的な(後者はすでにありそうで怖い)。

 

「○○力」は便利ワードになっていないか

そもそも最初に書いたように猫も杓子も「○○力」として使われるのは、イメージが固定されておらず、それぞれが便利(都合良い方向の)な想像をしてくれるという感じで使われているような気もします。ですが、それに実態があるとは限りません。

「○○力」というものを見るときは、必ずしも自分の思う実態があるとは限らないという可能性も考慮する必要があるのではないでしょうか。

■微妙に関連

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