空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

『空気のなくなる日』を読んで現代のデマなどに思うこと

先日、このような話題がありました。

 ■【Twitterデマ情報】ハレーすい星が近づくと5分間息をしてはいけない / 毒ガスが含まれていて死ぬ – ロケットニュース24(β)

まあ、これはデマというよりは、【爆速拡散希望】とか【RT推奨】とか「大学の先生の友達の友達に聞いた話ですが」といったことが書いてあるあたり、TwitterでたまにあるデマRTなどを皮肉りつつのネタのように思えます。おそらく最初の人は、1910年にハレー彗星が接近したときにこのようなデマが流れたということを多くの人が知っているというものとして書いたのかなと。

若い人には知らない人もいるかもしれないので一応説明しますと、ハレー彗星は76年周期で地球に接近する彗星です。前回接近したのが1986年で、そのあたりで生きていた人は記憶している人も多いでしょう。私も当時、学研の科学など子供向けの学習雑誌で盛んに紹介されていたのを憶えています。
さて、それより76年前の1910年の接近時、日本の一部の地域でこの彗星が近づくことにより、空気が5分間なくなるというデマが流れたのですね。ただ、実際はそこまで社会を混乱に陥れるようなものではなく、局地的な広まりだったようです。故に先日、Timestepsのほうで書いた『過去、日本で起こった大きなデマとその顛末』のエントリーに入れようかなとも思いましたが、スルーしておきました。

 ■参考:1910年のハレー彗星
 ■参考:過去、日本で起こった大きなデマとその顛末 : Timesteps


ドラえもんの『ハリーのしっぽ』

さてこのデマ、わりと知られていると思います。その理由のひとつは『ドラえもん』でこの話をもとにしたエピソードが書かれたことがあるからだと思われます。その話は『ハリーのしっぽ』という話。

この話、最近発売された藤子・F・不二雄大全集のドラえもん12巻にも収録されていますので、そこから軽くあらすじを説明します。

・のび太一家が物置を整理している。子供の頃使ったビニールの浮き輪などが出て来る。そして、巻物らしきものを見つける。パパ曰くおじいさん(のび太のひいおじいさん)から伝わるもの。それを読むと、明治43年から76年後(1986年)に災いが来る。その時のために生き延びるものを埋めておくと書いてある。
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・のび太、それを掘ろうとするが、長年守ってきたのにそれを掘り出しては悪いと掘るのはあきらめる。しかし災いの正体が気になってたまらないのび太はタイムテレビで明治43年を見ることに。するとそれを書いたのび吉おじいさんと思われる子供が水のはった桶に長時間、溺れる程に顔を突っ込んでいたが、心配した時点で母親らしき人に止められる。
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・タイムテレビで時間を巻き戻すと、その行動の理由として学校で「『ハリーのしっぽ』に毒が含まれていて、空気が一時的になくなる」という話をされる。

(藤子・F・不二雄大全集『ドラえもん』12巻「ハリーのしっぽ」P632より)

その話を聞いて子供達は焦るが、のび吉、自転車のチューブを使えば空気を溜めておけると思いつく。しかし買いにいくと同級生(ジャイアンとスネ夫に似ている子供。多分先祖ではなく、過去に行った時によくあるスターシステム的なものでしょうね)に自転車のチューブを買い占められる。つまり桶に顔を突っ込んでいたのは息を止める訓練だった。
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・そこで絶望しているところに、のび太達はさっき物置でみつけた空気の入ったビニールの浮き輪をもってゆく(当時ビニールはまだなかった)。
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・のび太達、その後そこで彗星を見て、ハリーのしっぽの正体がハレー彗星であるとわかる。そしてその当時流行ったデマの説明。
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・最後、巻物の通り庭を掘り返すと、そのビニールの浮き輪が出て来る。

……という話です(以上、藤子・F・不二雄大全集『ドラえもん』12巻「ハリーのしっぽ」より)。

この話の初出は1984年7月号の『小学六年生』とのことなので、ちょうどハレー彗星が来る2年前です。この後アニメ化もされたので、この当時子供だった人はそちらを見た人も多いのではないかと。


岩倉政治著『空気のなくなる日』

さてこの話ですが、原案と思われる創作があります。それは『空気のなくなる日』という児童向けの話(『空気がなくなる日』というタイトルで出されている本などもありますが、全く同じものです)。

こちらも絵本として広まっているので、こちらから知っている人も多いでしょう。自分はこれを小学校の低学年の時に学校の図書室で読んだのですが、読み始める前はタイトルから恐怖SF(当時SFという概念はなかったですが)だと思って、怖々手をつけたような記憶があります。

こちらのあらすじですが、概要はさっきのドラえもんの『ハリーのしっぽ』と同じく、明治43年にとある田舎で7月28日に五分間、地球から空気がなくなってしまうという話が広まるものです。ただ、話の内容は違います。


そのデマを聞くと、子供達を心配した校長は見ずに顔を突っ込んだりなど息を止める訓練を始めますが、結局五分間息を止めていられる人はいませんでした。同時に当時空気を貯めておける道具として唯一思いつくものであった自転車のチューブや氷ぶくろが異常な便乗値上げをされます(米1石が14〜5円という時代に何百円にもなっていた。ちなみにそれまでは一個一円二十銭)。貧乏な農家はそれを買えず、死への緊張が高まってきます。

そして貧農の親は子供のことを思い地主の家を羨むのですが、子供はそうしたら地主の息子であり、いつも子ども達の間で家の裕福さをカサに威張っている「うすのろ大三郎ときょうだいちゅうことになるんけ?」とはきだすように言います。金持ちだからとそんな人間を親が羨むことがくやしかったのです。また、親が借金してでも末の子に氷袋を買おうとするのを「うちのものが みんな 死んでいくのに、おらだけ、生き残っておられるかい!」と拒みます。そして子ども達は口々に「死んでやらあい!」「死んでこましょ!」と言います。

そして当日、重い空気の中で学校に一時間だけ集まることになります。そして子供たちは学校に行きますが、唯一うすのろ大三郎だけがま新しい自転車のチューブを六本ばかりつけていました。そのまぬけな姿を見て、もう死のうと覚悟し、立場に遠慮することない子供達は笑います(上にある表紙の絵がそれ)。そして、くちぐちに「おらなどおひるになったらうちで死ぬんだ。」と言いあいます。そして先生達もそういったものを持っている人はおらず、この世に金持ちが少ないことに驚きます。ただ、大三郎をうらやむ子供はいませんでした、「南洋の陸軍大将みたいだ」とか笑うだけでした。

結果としてこれがデマで、ゴムを高く売りつけようとした人の流した悪い人のつくりごとだったということもあとでわかります。貧農の家族はその時間が過ぎた後も生きていて、皆で笑いあいました。

そして最後、『子供は ふいと 大三郎の「南洋の陸軍大将」を おもいだした。そして、いまはおかしいというよりも、なんだかかわいそうな気がして、ならなかった。』という文章でこの話は終わります(以上、岩倉政治著 おはなし名作絵本24『空気がなくなる日』ポプラ社刊 より)。


このように、話はデマを通しての子供達の視点からの死へ対する思いや人間関係をなどを中心に書かれています。ちなみに前述の通り、この話は日本を揺るがすような大きなものではなく、作者の岩倉政治氏が体験した出来事をもとに物語にしたというものらしいです。

このお話が作られたのは昭和20年代、絵本化されたのが1975年と古いものなのですが、版を重ねているので(2008年で27刷でした)わりとあると思います。図書館の児童書籍コーナーに行けばわりと置いてあると思うのでそちらを読まれるのもよいでしょう。ちなみに映画化もされているのですが、特撮制作として戦後の日本マンガ、アニメ界の重要人物であったうしおそうじ氏(作曲家の鷺巣詩郎氏の父親)がかかわっていたりしたようです。

■参考:空気のなくなる日 - Wikipedia


現代人はこのデマや「うすのろ大三郎」を馬鹿に出来るか

この話、改めて読み直してみると非常に注目すべきところが数多くあるのに気付かされます。

まず、このデマの広がり方。うわさは一週間前、学校の小間使いのじいさんが持ち込んだのですが、町に出かけた時に「町のほうは 空気がなくなる話でたいへんですぞお。」言うのですが、最初比較的学のある先生達は馬鹿げた話として受け取りませんでした。しかし次の日、校長先生が県庁へ勤めている友達に災難が近づいているということは、世界中の学者が認めていて、東京や大阪はものすごいさわぎだ、ということを聞きます。当然これはデマなのですが、小間使いのじいさんが言った話は信じられなくても県庁へつとめている友人の話を校長先生が伝えるということで、一気に真実味が出てきます。そしてここで空気がなくなることは引力のせいだとか自分で推論してしまい、この話を信じるに至ってしまいます。そして「校長先生は子どもたちをたいそう愛していた。」ので、それを広めて、バケツなどでの息を止める訓練をすることになります。
つまり、デマの発生は悪巧みでもこのデマの広まりについては、むしろ真剣さ、善意的なものが大きいのです。これは昨今ネットなどで流れるデマの多くにも同じ事があてはまるのではないかと思うのです。

さらに、小学校低学年の時読んだこれは、大きくは貧乏な子どもの勇気ある覚悟と、欲をはった金持ちの因果応報という話に見えました。ですけど今思うに、このうすのろ大三郎や地主のことを笑えるか、というと、決して笑えない気がするのです。昨今よく流れるデマや、それから起きる行動を見ていると、当時の貧農に比べれば金がある分、地主一家に近くなってしまっているのではないか、とも思えるのです。そうしたら、現代の人はかわいそうと思われる立場なのでしょうか。
ただ、地主の立場にしてみれば、大切な息子の命を守りたいという心もあったでしょう。だからデマに踊らされてチューブを買ったことを全面的に非難対象にすることも出来ないかもしれないとも思ったりするのです。

そして現代、地震や原発に限らず将来に対して不安な情報が色々なところで流れています。それらを子ども達は聞いてどう感じているのか、空気がなくなることを聞いた子ども達は直近のことですが、長期的な面で似たような恐怖やそれに対する真剣さを感じているのかもしれないとも思うのです。


児童文学というのはこの他にも今改めて読んでいろいろと気付かされることがあるので、機会があればいろいろ目を通してみるのも面白そうですね。