『第三者法廷』の危険性

シェアする

前回のエントリーで以下のエントリーを参考としてリンクしました。

いじめの加害者をどう罰するべきか | アメリカ | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

■前回のエントリー

しかしこのニューズウィークの記事、いじめ問題とは別の点で非常に興味深いことに触れていたので、今日はそこについて書いていこうと思います。

加害者を第三者が責めるという構図

さて、この記事においてはいじめを行っていた生徒が自殺してしまい、いじめていた側のほうがそのことを糾弾され、人生が変わるような結果になってしまったということが書かれています。その経緯としては以下の通り。

プリンスの死はサウスハドリーの町を恥辱と非難の渦に巻き込んだ。校長は内部調査を開始したが、その時点でいじめの加害者に出席停止などの処分は科さなかった。

事件に同情した住民がボストン・グローブ紙に話を持ち込み、同紙は「意地悪な少女たち」が「開き直り、懲りもせずに」登校することを許した学校側を非難する記事を掲載した。「自殺に追い込んだ女子生徒を退学させろ」と訴えるフェースブックのグループは、瞬く間に多くの支持者を獲得した。

(中略)

そこへ登場したのが地方検事のエリザベス・シーベル。最近まで全米地方検事協会のウェブサイトの人物紹介欄に、子供の頃に兄弟をいじめた相手をたたきのめしたという武勇伝を載せていた人物だ。
3月、シーベルは重犯罪で訴追する生徒6人の名前を公表。彼らの「執拗な行動」は「(プリンスに)屈辱を与え、登校を不可能にすることを意図していた」と主張した。

(中略)

一方でシャロンは、プリンスの死という悲劇に苦しみ続けている。彼女は恐怖のあまり1人で家から出られない。家族の元には死の脅迫やいたずら電話があり、家に石が投げられたり、「お前の娘こそ強姦され、殺されるべきだ」といった内容の匿名の手紙が何通も玄関のドアに挟まれていたりする。

つまり、当初はこのいじめたとされる生徒達に処分は科されなかったわけですが、マスメディアやSNSのFacebookによって糾弾され、結果として第三者から責められる立場になってしまったわけです。

さて、これは是か非か。

たしかにいじめられた人間は無念ですし、そのいじめ行為に対して何も罰が行われないというのは、人間の感情として許せないと思う心理は不自然なものではないとは思います。ただ、それが無条件で第三者から行われてよいか、というと別問題で、大いに疑問が生じます。理由の一つは本文にある以下のこと。

皮肉なのは、この状況がプリンスの経験した苦しみと似ていることだ。彼女をいじめた子供たちは確かにいじめの加害者だが、世間の大人たちはどうなのか。マサチューセッツ州のいじめ防止法では、いじめとは学校で「心に傷を与え」あるいは「悪意に満ちた環境をつくり出す」行為を繰り返すことと定義されている。

この定義を現実の社会に適用すれば、加害者を非難する大人たちもいじめの加害者ではないのか。いじめ防止法を拡大解釈していくと、最終的には職場や家庭で繰り広げられる日常的な行動が犯罪とされる可能性がある。

つまり、第三者が結果としていじめた側に加害をする人となっているのですよね。しかし、これは何故か免罪符を得たように正当化されている面があります。なんというか「悪人ならそうされるべき、そうなってもしょうがない」という心理でしょうか。

この第三者における加害者への罰というのは、それこそ今に始まったことではありません。もう大昔から罪人に対して石を投げつけるような行為は行われていました。それが今も形を変えて行われているということでしょう。これはもちろん法律上では禁止されている行為ですが、それでも人間の犯罪を憎むという感情があるということから、非常に難しいものです。

第三者が知りうる事実は全てとも真実とも限らない

ただ、このとき第三者はひとつのことを考えなくてはなりません。それは「その加害者と言われている人は、本当に自分が情報として得たような加害者なのか」ということ。

第三者がその名の通り、その場に居合わせていない人たちです。そんな人たちがその事件の情報を得るためには、何らかの媒体を挟む必要があります。それがマスメディアの報道だったり、ネットだったり。しかしながら、その情報は全部ではありません。あくまでマスメディアやネットで書いた人がその事件を客観的に見て選んだところなのです。

たとえば上のいじめ自殺事件では、伝わっていなかった情報があるようです。

プリンスの場合、本人はいじめを受ける以前にも自殺を図ったことがあり、抗鬱剤を服用し、両親の別居に悩んでいた。この事実を知ると、事件に対する見方が変わるかもしれない。

いじめという行為自体は許せませんし、自殺したのは痛ましいことですが、この事実を知ると知らないのでは、印象が大きく変わるでしょう。しかし、責める人間はこの事実を知らず、自殺の原因は100%いじめにあると思い込んでいる人も多いのではないかと。

とはいえこの構図についても、別にいじめに限ったことでも、そして今始まったことでもありません。日本でも昔から大きな犯罪が起きると大々的に報道されます。そしてその容疑者に対して怒りが向けられ、その関係者(家族など)が嫌がらせにあうということもよく聞く話だったりします。しかしそこで第三者は直接見ているわけではなく、マスメディアの記事を通してのものですよね。ネットでも同じく。つまり、その犯罪が起こった特段の事情があったとしても、伝える人がそれを知り得ず、もしくは知っていたとしても意図的に書かなければ、読み手にとってはその記事がその事件における真実となってしまう危険があるわけです。

しかし、それが必ずしも真実ではないというのは、今まで幾多も実例がありました。特に代表的なのは冤罪事件。この手の事件は逮捕当時、過熱した報道がなされることで、冤罪とわかったあと報道被害を受けたことになるというのは有名です。冤罪が発覚するとよく当時の警察が責められる報道がありますが、ある面ではその冤罪被害者やその周辺にダメージを与えることにその報道が大きく荷担してもいるのです。

■関連:「かわいそうな被害者」に寄り添うテレビの姿勢が通じなくなったのは、ネットの影響でしょうね。 – うろうろドクター – Yahoo!ブログ

最近ではネットでも、北海道の不動産屋がネット上のデマで強姦事件の犯人の家ということにさせられ、嫌がらせの電話を受けると言ったデマがありましたね。

北海道の外山不動産が強姦致傷事件容疑者の関係者のように伝聞されたデマ – 訂正information

さらに、本当に事件を起こしていたとしても、真実を知るとその人を決して責められない事情であるという場合も存在します。たとえば違憲判決が出たとして刑法や憲法、基礎法学では必ずと言っていいほど出てくる「栃木実父殺し事件」というものがあります。これは実の娘が父親を殺した事件なのですが、その背景には性的暴行をして子供を産ませて虐待されていたというかなり陰惨な背景があります。ですが当時の報道では「なお、報道機関はこのような事情を把握していたが、内容が常軌を逸していたためか、事件当時にはほとんど報道されなかった。」とあります(Wikipediaソースなので実際にどのくらいされたのかは不明ですが)。でもそうだとしたらこの娘は第三者からはただの親殺しな子供と見られていたわけで、今事件史を見て受けるような印象とはだいぶ違う可能性があります。

■参考:尊属殺法定刑違憲事件 – Wikipedia

つまり、第三者の判断というのは限られた状況の中での判断であり、事実と違う思い込みをする可能性は十分にあり得るのです。

伝える者がその情報に「悪意」を介在させる可能性

そして何よりも問題は、この第三者に伝える者、つまりメディアやネットの誰かがそこに「悪意」を介在させてしまうことも出来るのです。たとえば、書き方一つでその人がやったことが事実よりもひどく見えるようになったり、さらにひどい場合には事実ではないことをしたように書かれたり。しかし多くの場合、言われた方はそれを言い返す場を持ちません。故に最悪の場合、そういった報道なりネットなりが、無罪の人を陥れてしまうことも出来るようになるわけです。

昔のエントリーで、「ふおんコネクト!」の、「伝える事実を選択する」という行動。「『報道しないこと』これがマスコミ最強の力だよ」というのについて書きましたが、伝える事実を選択するということは、実はネットでも出来てしまうと考えます。

たとえば、ブログやTwitterでとある記事や2ちゃんソースを作為的に切り取り、それを『拡散希望』とつけつつRTで広めてゆけば、そういったものが完成してしまうので。

裁判員制度の判決が第三者に影響される可能性

そして、この意味で現在私が最も危惧しているのは、裁判員制度です。私が現行の手順のもとで行われている裁判員制度に反対する理由はいろいろあるのですが(とりわけ裁判員の負担)、そのひとつにこの「第三者判断」があります。

現在、裁判員制度で扱う者事件は重大事件に限定されていますが、これらは社会的関心が高く、マスメディアも注目するものです。そして裁判が起きることには事件の詳細が報道され、国民の間に「(その全体ではなく)報道された内容においての」一定のイメージがついています。裁判員はそれら報道から受けるものを排除して、公判での材料で冷静に判断することが求められますが、それは可能でしょうか。法曹の人(検事、弁護士、裁判官)でも人間である以上、感情を廃した100%客観的な判断というのは難しいと思われます。それを法の知識のない、一般市民がやるというのは、かなり困難なのではないかと思われます。というのは、与えられているイメージの他に、世論という名の無言のプレッシャーを与えられるから。そしてそれに反する結果を出すと、今度は裁判員が責めの対象になることもないとは言えません。一応個人情報は秘匿されるでしょうが、公的機関から情報が漏れまくっている昨今、それは絶対ではないですし、仮に名前が明かされなくても、心理的な負担を背負う可能性があります。

そして何より、この「世論」というものは、前述のように伝える人間の立場によって調整してしまうことが可能ということです。つまり悪意を持った人間がメディアなりネットなりで伝える立場となった場合、たいしたことがない罪、もしくは無罪となるようなものでも悪人に仕立てあげて世論を誘導し、重罪としてしまうような状況を作り出すことが可能となり得るからです。特にその伝える人(組織)の敵対者だったりする場合、その傾向は強くなるでしょう。

つまりは裁判員制度というものにより、裁判員を通して第三者が世論という形で間接的にその判断の内容を判断し、そして判決を下すという形になる『第三者法廷』にならないか、ならないまでも近づいてゆかないかという危惧があるのです。しかもそれは明示的ではなく、暗黙的に。もちろんこれは裁判に限ったことではなく、マスメディアやネットで伝えられるあらゆること(とりわけ衝撃的なこと)に対して。しかし、その第三者の判断は、あくまで(もしかしたら悪意をもっているかもしれない)誰かを通して伝えられたものから判断したものかもしれないのです。

正直、裁判員制度を続けるとしたら、最低でも公判が終了するまでその事件に対する報道をせず、且つ会見、インタビューを一切認めないなど裁判員の正体を絶対に秘匿し続けられる仕組みを作ることが大前提ではないでしょうか(まあ秘匿したらそれで検察審査会で今言われているような閉鎖的な問題も起こり得るのですが)。

情報を疑い、自分で判断するということ

たしかに、市民感情からして、罪を憎み、被害者の受けた無念をはらしたいという気持ちは自然と言えます。しかしその気持ちが暴走する可能性があるというのは、今までの数々の例で明らかでしょう。故に情報に対してはそれを鵜呑みにせず自分で真実かどうかを判断する心構えを作り、そして反応もこれらのことをよく考えて行うようにしなければいけないのではないでしょうか。

真実というものは、あくまで自分でしか確認出来ないものなので。

スポンサーリンク

シェアする

フォローする

関連記事
スポンサーリンク
お仕事依頼について About contact
お仕事依頼について About Sitemap contact