空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

Twitterの見え方が人によって違うのは当然

最近、Twitterに関して、ネット以外の媒体で紹介される機会も増えてきました。多くは新聞や雑誌。

しかし、その中には実際Twitterを利用している人が見ると、「ん?」と思ってしまうようなものが含まれています。例えば「犯罪の温床」とか「出会い系」みたいなものですね。
Twitterの利用者には、これらを見て怒る人もいるでしょう。それはそうです。自分が気持ちよく使っているものに対してさぞかし悪いもののように言われたらそう思うでしょう。
しかし実は「Twitterは出会い系である」と感じるのも、そして「Twitterは人間をダメにするものだ」と感じるのも間違いであるとは言えないのです。しかし、私はそうは思っていません。一見矛盾しているようなことを言っているようですが、Twitterの仕組みをよく考えてみると納得するはずです。

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フォローしている人は人それぞれ

実際にやっている人には今更でしょうが、軽くTwitterのしくみを説明しますと、自分のアカウントがあり、それに対して自分が出来ることはpostを読みたい人をFollowをしてゆくこと。そうすれば、自分が読みたい文章が流れる「タイムライン(TL)」が構築できます。そして自分もpostをすることで、他の人がFollowをすることもあるでしょう。たとえばAという人が自分を含め、趣味にあう他の人をFollowすることでタイムラインを構築するとします。そしてまた別の人(Bとします)も同じように好きな人をFollowすることで、タイムラインを構築するでしょう。

そのFollowをする人ですが、何も強制敵に割り当てられているわけではありません。利用する人はそれぞれ、何十万、何百万という世界中のTwitter利用者から自由にその人の利用目的に合うようなFollowの仕方をするでしょう。たとえば実際の知り合いを中心にFollow、趣味など特定のジャンルのpostを多くする人をFollow、異性をFollow、とにかく手当たり次第にFollowなど、それは基本個人の自由であります。そしてそれがTwitterの魅力のひとつでしょう。

さて、こうやってタイムラインを構築してゆきますが、多くの場合2ケタ以上Followしている人が多いと思われます。しかし、ここにおいて自分とAさんとBさんは、同じタイムラインを構築するでしょうか。その可能性は自分とAさん、Bさんが知り合いで、且つ意図してやらない限りはほとんどないと思われます。たしかに有名人など、同一の人をFollowするようなことは十分あり得るのである程度の重複は自然ですが、全く同じ人をFollowして、全く同じタイムラインが流れる可能性というものはないと言ってもよいでしょう。
これは、何もTwitterが知り合いだけならそれだけ、またはアニメ系ならそれだけなど、ひとつのクラスタに制約されずタイムラインを構築できることがあるでしょう。芸能人だけで構成している人もいれば、アニメ系、ゲーム系等が混じっている人、はたまた芸能人とマイナーな趣味のクラスタをフォローしたり、特定のクラスタはないけど、ネットを巡回していて気に入ったからFollowしたとか、RTでおもしろそうだったから追加で入れたとかいう場合もあるでしょう。現在、Twitterには国内だけでも50万人をはるかに超える利用者がいるようですが、それなりの数Followしている人で全く同じTLが意図的ではなく流れている人がいたら、確率上はかなり奇跡的ですね。

タイムラインは利用者それぞれで見え方が異なる

ここでひとつのことがわかります。それはTwitterのタイムラインというものは、利用者個人個人によって見え方が異なるということ。つまり、同じ「Twitterをしている」というのであっても、そこに見えるものは人によって違うのです。当たり前です。読んでいるものが違うのですから。よく何かひとつのオブジェクト(例えば本とか)について印象を語る時に、人によってその印象が違うということはよくありますが、Twitterではそもそも読んでいるものが違うのです。

そして最初の話に戻ります。つまり誰かにとって「出会い系」とか「亡国的」に見えたとしても不思議ではないのです。何故ならその人がそういうタイムラインを構築して、そこからそういう印象を受けたわけですから。ただ、それによってTwiiter全体がそうとは言えません。だって、見え方は個人個人で違うのですから。そして同時に他人の見え方を非難することは出来ないでしょう。その人が自分のタイムラインで見えてそう感じたものは、自分のタイムラインから受ける印象とは違っても自然なのですから。極論、Twitterを意図的にひどいものとして見たい場合、そういうタイムラインを構築して、Twiiterをその人にとって酷いものとすることも出来ます。でも、それはそのタイムラインが酷いものであり、他の誰かのタイムラインが酷いとは限らないのです。

自分の見ているものが他人に同じ風に見えるとは限らない

だけど、何もこれはTwitterに限ったことではなく、たとえばmixiなどのSNSにも言えるでしょう。SNSの場合は繋がる相手やコミュニティーを指定して自分の見える範囲を構築しますが、それは個人によって異なります。故にSNSはどういうものかという印象もだいぶ違うのではないかと。よくSNSは出会い系になっているみたいな話が出て来ることがありますが、私はそういうコミュニティは利用していないし見ていないので、そうは思いません。ただ、利用しているかしていないかにかかわらず、それを見ている人はSNSは出会い系と見てしまうこともあるでしょう。

さらに言えばネット全体でさえ、利用の方法によって見え方は人によって違うでしょう。利用の仕方によって、少なくとも自分の周りには害悪を感じない人もいるでしょうし、利用する場所、見えているところで、有害な情報だらけと見る人もいるかもしれません。ただ、それは人によって違うのです。ネット規制ではどうもその他者の視点が欠如して「場」から規制論が出ている印象も受けるのですが、もっと使う人間のほうをいろいろ調べないといけないのではないかと、という余談をつい付け加えてしまう今日このごろ。ちなみにもっと突き詰めれば、世界の見方、見え方も触れている環境によって違う印象を受けるという深い思想のものになりそうですが、それは語り出すときりがなさそうなので割愛。


同じTwitterを使っていても、他人の見ているものと自分の見ているものは違う可能性がある、というのは、認識しておく必要があるでしょう。あまり機会はなさそうですが、友人知人のパソコンやケータイ、iPhoneなどで流れるタイムラインを見せてもらうと、印象がだいぶ違って新しい発見があるかもしれませんね。