空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

小学校からの英語必修化はその後の英語教育にリスクを伴うと思う話

このようなニュースが。

仕分けで英語ノート「廃止」、教師から反対殺到 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

このニュースでは最近話題の「事業仕分け」において小学校での英語教育における教材費に対して「廃止」との判断が下されたことが書いてあります。いつのまにか小学校でも英語の必修化が決定していたようですが、私はこのニュースを見てものすごく「これでいいのか」的な気分になりました。しかしそれは教材の事業仕分けではありません。気になったのは『多くの教師が英語導入に不安があり、指導法も確立していない』という部分。英語を小学校から習わせるというのは、当然学生の英語力を向上させるためのものでしょう。しかし私は上のような状況では、逆に現代よりも英語が出来る人を少なくする可能性もあるのでは、と思ったりもするのです。それは手慣れていない教師が、初めて本格的に英語を習う生徒に対して教え方を失敗すると、そのまま英語に対して苦手意識、嫌悪感を持ち、かえってその後の積み重ねが出来なくなる危険性があるのではないか、と思うので。

考えてみると、「英語」という授業は他の主要教科(国語算数理科社会)と比べてちょいと特殊な位置づけのものだと思うのですよね。これは小学校に限らず中学でも。というのは、国語は小学校に入る前までにもとりあえず日本人の場合は「喋る」という形で触れてきていますよね。数学も同じく、一応は実生活で数を数えるという形で触れてきていると思います。その意味で理科も社会も小学校入学までの生活から、最低限の知識(商店なり仕事のこととか、植物の生育のことなど)は存在している人が多いのではないでしょうか。つまり、それらの科目を始めるにあたっての導入口は比較的整っていて、はじめから全く出来ないという生徒はそんなには多くないような気がします(まあ個人差、環境差はあるでしょうが)。しかし英語の場合、そこではじめて「英語」に触れる生徒も多いのではないかと。まあもちろんABCや簡単な単語は知っているでしょうが、その文章構造を最初から知っている生徒は、それまでに別の英語教育を受けていなかった場合、あまりいないと思われます。つまり、他の教科が10〜20の土台があるところで授業という形で教わりだすとするならば、英語は0とまでは言いませんが1や2くらいのかなり脆い土台からスタートする場合が多いのではないでしょうか。

で、さすがにABCやら簡単な単語くらいはただの暗記のようなものですしさほど覚えるのに問題ないでしょうが、いざ文章となると、そこで理解出来ない生徒が出てくると思われます。何故ならそれは今まで絶対だった「日本語の文法」とは別の概念ですから。例えば「It is a pen.」という文章があります。Itとは何か、isとは何か、何でpenの前にaがつくのか、それを上手く説明出来る教師はどのくらいいるでしょうか。「He rans very fast.」という文章はそれぞれを訳せば「彼 走る とても 早く」ですが、何故このような順番になるのか、そして何故ranにsがつくのか上手く説明して理解させ、そしてその精との英語の基板とさせることが出来る教師はどのくらいいるでしょうか。

心配はここにあるのです。つまりこの段階で理解出来ない生徒は出てくるでしょう。けどそれをうまく説明できない教師に教えられてしまった場合、そこで出来ないというのは確実です。それより深刻なのは、そこで「自分は英語は出来ない」という苦手意識を持ってしまい、その意識を中学、高校まで引きずってしまわないか、ということ。実は私も中学時代は英語が苦手でした。それはやる気がなかったのもあるのですが、教える側に責任転嫁すれば「なぜそうなるのか」というのを教えてもらわず、ただひたすら訳すのが大半であったので、わからないまま引きずってしまったのですよね(ちなみにGrammerのほうも、なんだか文章構造の解説がしてある短文を訳しているだけのように見えた)。まあ日本語訳を暗記すればどうにか赤点は回避できるテストにも疑問はありますが、仮に最初に「英語の文章を読むにあたっての土台」がうまく構築できていれば、またその読むだけの中にも何か知識として積み重なるものはあったのかなあと、やっと英語の苦手意識がなくなった大学入学後に思いました。

ちなみに今の中学の英語の授業は一学年105時間、3年で315時限あり、高校では専攻によりますが、735時限程度もあるということ。で、合計1050時限、授業時間を50分とするとその6年で約875時間も費やして英語をやっていることになります。

■参考:中・高校の英語授業時間 - ikuma's log
■参考:中学校学習指導要領−文部科学省

それなのに、高校卒業時どころか、社会人でもに実用英語が出来る人はかなり限られる、というかかなりの確率で学校以外からの教育を受けている、というのは改めて考えると何かが可笑しい気がしてならないのです。なんつーかその時間ずっとsmart.fmとかやってたほうがかなり英語力伸びるんじゃないかなあとか思ったりするし。


そんなわけで、小学校で教えること自体は否定しませんが*1、やるのだとしたら上のように教師が不安な体勢では相当その後の英語教育でも悪影響を及ぼす可能性があるのではないかと思うのですよね。やるとしたら確実に基礎が身につき、少なくとも中学での英語スタート時にすでにおちこぼれていないような体勢を整えないと。おそらく事業仕分けで言われていたものとの意図は違うとは思いますが、そうではない現状では、その意味で小学校で無理に英語をやらなくてもいいのではと思うのです。ただそこで教育予算を削るのは違う気もするので、小学校からでも中学校からでも、英語を教えるのがすごくうまい教師をひとり養成するとか、完全無欠の教材を開発する方に費やしたほうがよいのではないかと思ったりするのです。


ちなみに小学生がアルファベットを覚えるのには、PCやワープロを使ってローマ字打ちで文章を打たせるのが一つの手かと思います。自分は小学校の時親の持っていたワープロ使いたくて、それでローマ字覚えたから(かな打ちは親が許してくれなかった)。そういえば今の小学生ってPCの授業とかあるみたいだけど、キーボード打ちはかなのかなあ。もしそうだったらそこをローマ字打ちにするだけでもだいぶ違うような。まあかな打ちは早く打てるので大人になってからそっちの方が便利という場合もあるのですが……と話が関係ないところに行きそうなので今日はこれまで。

*1:小学校からやると、日本語の読解力が固まってないところに別の論理概念を混ぜてしまうのでどっちつかずにならないかと思ったりもするのですが、これはあくまで予想で科学的根拠はないので。