ケータイ小説大賞の「あたし彼女」の文書形式は十分評価できると思う話

なんだかケータイ小説で、ある意味話題になっているらしいものひとつ。

ああ、昔にもどりたい 第3回ケータイ小説大賞の大賞作品「あたし彼女」がすごすぎる件【kiki】

それに対してのブロガーのコメントなど。

「あたし彼女」を無条件に批判している人間は自分の読者としてのリテラシーを疑ってみた方がいい - やや最果てのブログ
あれ?おかしいな。 - $ dropdb 人生
読まずに舐めるな! - タケルンバ卿日記
そういや、第二回携帯小説ってあまり話題にならなかったような - 煩悩是道場

たしかに読んでないうちから批判するのはどうかってことで、私もここで目を通してみました。結論として、私の好きな話ではない。だけどそれは私個人の意見であり、他者からは私のおもしろいと思うものがつまらないと言われてもしょうがないという感じ。で、物語としては、最初のリンク先で言われているほど酷くないのじゃないかと思います。というか最初のリンクは攻撃というより、ネタにしているという側面の方が大きいと思いますが、それは必ずしもイコール非難とはならないでしょう。少なくとも単純に判断した場合、これが好きな人はいても、別にそれは学力や読解力云々には繋がらないのではと思います。つまり、普通に純文学を読む人でも、これが好きな人がいてもちっともおかしくないと思えます。それどころか、この一見ふざけているように見える文書形式には、携帯小説としてかなり評価する部分があるのではないかと思ったのです。

これ、ひと目みてわかりますが、ほとんどが単語つなぎとなっています。これが何を意図してなのかは作者以外にはわかりません。独特の間かもしれませんし、何も考えていない可能性もあります。しかしこれは結果として携帯小説においてはかなり効果的になっている気がします。それは携帯の画面に表示されるものであるという点で。

携帯の画面は言うまでもなく多くのものは横が非常に狭く、おそらくは全角で20文字入るものはあまりないと思われます。しかもそれもメーカーによって違いがあると。つまり、ギリギリでこのような改行をしてしまうと

1234567890

12345678(ここで画面サイズにより強制改行)
90

というように、変なところで改行してしまい、文字のレイアウトが見る環境によって崩れてしまう可能性があるのですよね。この意味で、携帯電話というのは既存の小説をそのまま移し替えてきても、非常に読みにくいものとなってしまう危険性があります。はっきり言ってしまえば、たいていの既存小説は、携帯で読むのに向いていないと思われます(縦書きを横書きにする問題もありますが)。とはいっても、小説と同じように読めるビューワーじゃ、携帯では立ち上げるまでに凡雑な上重くて読みにくいと。故に現在の携帯小説も、ほとんどは素のHTML記述ではないでしょうか。

しかし、『あたし彼女』の場合、見ての通りほとんどが携帯の規定文字数以下と思われるもので区切られています。したがって、折り返しになることがないので、非常に読みやすいのですよね。そしてもうひとつ、これを携帯で実際で読むと、携帯で文字を読むのに少し慣れている人なら、おそらくスクロールの下ボタンを押しっぱなしでも十分認識できるのではないでしょうか。これは結構便利です。というのは携帯でサイトを見る場合、いちいちスクロールボタンをカチカチやらないといけないのがめんどくさいし、指が疲れるのですよね。しかしこの場合、一度読み込ませてしまえば、スクロールを押しっぱなしにしてもおそらくは読めてしまうと思います。で、末尾の「次ページ」を押して、次を読み込ませ、また同じように押しっぱなしで次という感じで、軽く読めると。ただ、読む時間よりページを読み込む時間の方が絶対長かった。携帯だともっとだよなあ。

つまりは、このような「(本来は見づらい)携帯電話での文章閲覧を読みやすくしている」という点においては、評価をするに値するのではないでしょうか。

余談ですが、このような媒体によるの文字数の工夫というのは、ほかの媒体でもありますね。たとえば映画の字幕なら、通常2行以上で一文を形成しないといけません。あと、ゲームでもウインドウの大きさには制約があり、たとえば横25文字、縦3行ならば、台詞にしても地の文にしても、75文字以上のものは原則として書いてはいけないのですよね。だって、ウインドウにおさまらないくらい長い文章を書いた場合、スクロールの必要がありますけど、かなりわずらわしいし、面倒ですから(ちなみにパソコンからコンシューマへの移植の際には、画面解像度からその文字数も問題になるのですが)。

そういった「媒体による文字制限の概念」を携帯に持ってきて、読みやすさを追求した結果ああなったのだったら、それは十分評価をするに値するような気がします。

あとついでに、この小説を非難する理由として「みたいな」の多用がありますが、これはあくまで若者言葉としてではなく、区切の記号表現として見ればそれなりに体裁の整ったものになる可能性があります。つまりこれを「マル」、つまり文節の”。”と言い換えて読んでみると、なんとなく感じが変わりませんか? これをもって、若者言葉と感じるのは、ちょっと違うような気がします。だいいち、こんなに「みたいな」を多用する奴は、昔「チョベリバ」を多用した奴くらいいないだろろ。これを地で若者言葉として使っていたら、なんというか年配の人から見た若者でしかないような。まあ作者の人がどういう意図で使ったのかは不明ですが。ただ、この技法自体は、すでに書籍という媒体では、これより洗練されていることをすでに小説&ライトノベルでやっていると思います。


つまるところ、この『あたし彼女』は、携帯小説という媒体のみでその利点が出るものであって、単純に小説との比較をすると、微妙に齟齬が生じる気がします。それはアドベンチャーゲームと小説を比較する感じに似ているかな? そして同時にこの「あたし彼女」は、絶対に書籍化してはいけないと思うのですよ。そうすると、単なる白紙部分が多い、日記に書いた変な詩集程度の印象になってしまいかねないので。ついでに作品の好みのもよるでしょうが、映画化もかなり微妙だと思います。この文章あってこその評価だと思うので。

ちなみにこういったことををふまえて審査員が高評価をしたのかは謎ですが、まさかこういった単語の連結や、「みたいな」の多用イコール若者言葉(文化)だと思ったはずはさすがにないと思います。というか思わせてくれ。そうじゃないとあまりに悲しいし。