空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

文章が面白くないと思っても、とりあえず「最後まで書く」ことが大切だと思う話

『面白い文章が書けない』(ここで言う「面白い」は、笑えるとかではなく、興味深いなど広義のもの)ということをよく聞きます。というか、私も面白くない文章ばっかり書いているような気がします。確信を持って「これはいい」と思えるものはそんなに多くなく、「全然ダメかもなあ」と思って出すこともけっこうあります(先日の『最近マクドナルドに感じる味と値段以外の不満』だって、ひとことで言えばマクドナルドへの愚痴を理由つきで書いただけですし)。それでも読んで反応をしていただけると、嬉しいわけですが。逆に、自分でも「これはよく書けた」と思っていても、反応がいまいちだったいるすることはよくあります。その予想通りにいかないところが楽しかったりするわけですが。まあ、基本狙って書けるほど器用ではないので(つか、趣味のブログなのに意に反したこと書いてストレス溜めたくないし)。

さて、これは自分の見た範囲なのかもしれませんが、『面白い文章が書けない』言う人はだいたいその面白くないと自分が思っている文章があまり公表されていないのですよね。まあ、もしかしたら当たり前かもしれないのですが。そりゃ私だって、そのまま出そうか躊躇する時はけっこうありますし。しかし、そう言う人たちはもしかしてその面白いものではない文章を、最後まで書き上げていないのかなと思う時があります。それは私から言わせると、正直もったいないです。いや、何もそれを絶対公表しろと言うわけではありません。ただ、最後まで書くことによって見えてくるものがあると思うので。

たしかに書いている途中でも「ああ、この文章はおもしろさが伸びないだろうな」と思うことはあります。でも、そこでやめると「どうして伸びないか」がよくわからずに、見過ごされてしまうことがあるのですよね。しかし全部書けば、どうしておもしろさが伸びないかがなんとなくわかることになります。そしてそれは文章の善し悪しだけではなく、ネタの問題だとしても。そのネタに対してどうして面白くならないのか、例えばどういう切り口が足りないか、というのを見直せるわけです。しかし途中でやめてしまうと、それを放棄して、学ばないまま捨ててしまうわけですよね。これはもったいない。せっかくネタを思いつく→書く→途中まで書いたというステップを踏んでいるのに、最後の最後で中断するというのは。

これはおそらく、小説など作品でも同じではないでしょうか。構想だけ、途中まで書いてやめてしまうのはもったいない。なら全部書いて、それでどこが悪いのか判断するというのはよくあることではないでしょうか。特に作品の場合、全体の流れがおもしろさの重要な要素ってこともありますしね。

ただ、書いたけど、無駄になる部分を切り捨てる勇気ってのも必要だとは思いますが、それはまた別問題として。とりあえずその判断も、全部書いてみないとわかりませんからね(よっぽど腕のある人は別として)。

それに、最後まで書くと、時にはまた出番が巡ってくることもあります。私も書いてから「これはどうよ」という文章がありますが(勢いでそのまま公表してしまうこともありますが)、捨てられずにデスクトップのフォルダにまとめてあったりします。そして別のネタを思いついた時、そこから引用したり、もしくはその元ネタに加えて利用したりします。

それにもしかしたら、面白くないと思っているのは自分だけで、公表したら意外にいいものだったりとかすることもあり得ますし。


というわけで、このブログはそんなつまらん文章もあふれているわけですが、恥をさらしながらその中からよいものを出すというのもいいかなと思うわけです。プロならそうはいかないことも多いでしょうが、ここは無料のネット空間で、且つその中からの取捨選択は読み手の自由なのですから。*1

ちなみに、今日の文書は自戒だか、言い訳だか書いていてわからなくなってきた上、面白いかどうかわからなくなってきたのでここまで(よし、オチがついた)。

*1:もちろんプロの作品も読み手の自由だと思いますけどね。