空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

考えてみれば、テレビの歴史ってまだ50年程度しかないんだよね

最近のニュースを見ていると、CM出稿量の減少とか、地上波デジタル放送への以降率が40%程度しかないとかいろいろテレビに関してピンチだということが言われています。それでいろいろ騒がれています。それの中には日本人の生活が変わるとか、歴史が終わるように大げさに言われているものも多いですが、よくよく考えてみると、そこまで大げさなことでしょうか。だって、テレビが一般家庭に入ってきた歴史って、50年程度しか経っていないのですから。

テレビが街頭のものから一般家庭に普及し始めたのは、『三種の神器』と言われてもてはやされたのは、1950年代後半、今から50年前。ちなみに現在の民放キー局が続々放送を開始したのも1950年代前半(テレ朝のみちょっと遅れて1959年)。つまり、テレビにはとんでもなく長い歴史があるように見えますが、その歴史は戦前からある新聞や雑誌、ラジオ等に比べてかなり短いと言えます。実際、高齢者の人にはテレビよりもラジオの方がなじむという人はかなりいるようです。余談ですが、昼時ラジオの高聴取率番組(大沢悠里のゆうゆうワイドあたり)は高齢者の視聴者が多く、下手をすれば同時間帯のテレビ番組より視聴率(聴取率)がよいのではないでしょうか。

これだけでも十分に長いように感じるかもしれません。しかし、ほかのものと比較すると、大差ないように思えてきます。たとえば『少年マガジン』『少年サンデー』が創刊され、マンガが広い層に普及を始めだしたのが1959年、ほとんど変わりありません。そしてファミリーーコンピュータが発売されたのは1983年。つまり、今年で25年目。ということは、もうテレビが一般家庭に入ってきた歴史の半分を歩んでいるわけですよね。あと25年後には、現在のテレビが歩んできた歴史と年代的に並んでしまうわけです。ついでにコミックマーケット第一回は1975年です。

つまり、歴史の深さという点から言えば、上記のどれも1世代(だいたい30年くらい)の中に集約できてしまうものなのですよね。そうなると、そこでの隆盛、そして衰退というのはどれにとってもあることでしょう。これらのものは、幾多の存亡の危機を乗り越えた、というにはちょっと歴史が短すぎるのではと思います。ですので、「最近の若者は」的論調でテレビにおいてこういった新進文化と呼ばれるものを批判していると、ある意味笑い話ですよね。*1

となると、それが衰退しているから大騒ぎというのは、ある意味では大げさとも思えるわけですよね。だって、たった1世代、よくて2世代での隆盛なんて、それこそ今までいくらでもあったものなのでしょうし。それはまるでポケベルやワープロ専用機のように。

(書き漏らしていたので追記)最たるものは映画でしょうね。映画はテレビが始まる前、庶民の娯楽としてはトップクラスのもので、続々と映画が作られ、そこでの俳優が国民的スターと言われました。そして、そこで会社と揉めてドロップアウトした俳優が行き着いたのが、当時まだまだ映画よりも下に見られていたテレビでした(田宮次郎など)。そして映画会社は五社協定など俳優に対して独占的な立場を強くしてゆきましたが、そのうちテレビ番組は映画の人気を超え、俳優、女優はテレビにと移ってゆき、映画会社はどんどんつぶれ、「映画冬の時代」と言われるようになります。

ですから、そういう観点からすると、ここでテレビがなくなっても、終わってしばらく経ってしまえば、とある一時代の流れとして、受け止めることも出来てしまうのではないかと。ましてや、ネットという代替があるのですから。それはかつて、映画の代替にテレビ番組がなり、新聞の代替にテレビのニュースがなったように。


さて、最近B-CASなり地上波デジタルなりコピワンなりでもめていますが、これらってすべて、これからもテレビ含む放送コンテンツが発展、もしくは現状維持で進むという前提で作られているのですよね。ですから今、それの何十年かを決めてしまう策定で必死になっていると。それがたとえ厳しい策定でユーザーを離れさせるものだとしても。だけど、それは10年後にまだ今のままの勢いであるとは限らないのですよね。FAXだって導入当時は、必ずあり続けるものだと信じて疑いませんでしたし。それ以前に、固定電話の権利の資産価値が事実上なくなるとは思いもよらなかったでしょうね。

もちろんFAXとかがメール全盛の今でも使われているように、テレビが完全にはなくなることはないでしょう。けど、おそらく今のままテレビがお茶の間にあり続けるってのは、歴史的に見ても幻想でしかないと思えます。ですので、今の議論も数年後には笑い話になっていたりすることもあるのかもしれません。


しかし、そういったものに自由を求める立場の人というのは、ユーザーの自由だけではなく、その至上の衰退を防止する意味でがんじらかめの仕様に反対している面もあると思うのに、権利者側からは、利益を害するものとしか移らないのかなあと、最近の会合レポを見てそんなことを考えます。そうなると、いつまで経っても妥結することはないよなあ……

「経緯は知らぬ」「言い逃れだ」・コピー補償金問題、10日再開の審議は大荒れ

『小田原評定』って諺がありますが、あれって、あのあと北条氏がどうなったかという揶揄も含めての諺だと、最近思ったりしました。

*1:でもそのうち、ネットや携帯の媒体が何か新しい文化を避難するなんていう時代も来るかもしれませんが。