「空気を読めない・読まない」が変化禁止の呪文として使われる危険性

このブログの名前の由来は、「空気を読まないブログ」+「中杜カズサmemo」で「空気を読まない中杜カズサ」となったというのは前に語りましたが、何故、マイナスイメージの強い『空気を読まない』という単語を使ったのか。まあこれは言葉遊び的なものが強いのですが、ブログに限らずサイトにおいては、有名人でもない限り個人の日記を書いたもの、すなわちテーマも決めずにとりとめもなく書かれたものというのは知人+αくらいにしか読まれません。読まれているサイトの多くは社会なりマンガなり、経済なりアニメなりと、ある程度の方向性が決まっているものが多数です。そこで、特に方向性を定めずにふらふらと書いても読んでくれる人がいるかな? と、こういったブログを始めてみました。

おかげさまでそれなりの方に読んでもらえるものにはなりましたが、もしこのブログをテキストブログ以下でジャンル分けしようとする時には、困る方もいらっしゃるかもしれません。方向が定まっていない分、マンガを目的としてこられた時に妙なサイエンスだったり、エセサイエンスを読みたい時にネット論だったり、アンテナなどで来られた方で期待はずれな思いをされている経験をなさった方もいらっしゃるかとは思います。

でも、「ジャンル制約がない」というおかげで、かなりいろいろなことを書けたと思います。おそらくこれらの多くは一瞬だけ考えたら永遠に忘れてしまうようなものなのに、それを広げることができたのですから(なにより何でも書けるので、私の精神衛生上良い)。そう考えるとこういったのも悪くないかなと。

さて、今日の本題。

最近では『KY』などと言われ、空気を読めないことが全面的に悪いように言われています。

たしかにみんなでいるところで一人だけ勝手に迷惑行為を行うような人間、例えばパーティーの主役がすき焼きにしたいと言って、今日はその人のお祝いだからみんな賛成しているところに「俺、しゃぶしゃぶじゃないと嫌」とか言い出す人間がいたら、それはまあ非難されても仕方ないでしょう。しかし「空気を読まない」、そういった露骨な迷惑行為ばかりではなく、全体から見れば有意義なことでも、その場の雰囲気にそぐわなければそう定義されてしまう場合があります。例えば会議の席上で「前年と同じで」と結論が出ておひらきになりそうな時、それが間違ったものであり、この場で変えようと意義をとなえる人が出たとします(なんかどこかの議会やら役員会議で行われていそうな光景ですが)。そしてそのなあなあで済まそうとした人たちは言うでしょう「あいつ、空気読めてない」と。

このように、全体的に見れば良い方向に変化をしようとしている時でも、その場の雰囲気を収めるため、その雰囲気を壊した人が「空気を読まない」という言葉でマイナスに定義されてしまうという現象は起きていないでしょうか。極論、誰かの都合(主にその場の力を持っている人)に悪ければ、それが『空気を読めない・読まない』として一律に定義されてしまうわけです。

言葉のほうに注目すれば、迷惑行為からそういった変化まで一律に含めてしまう『空気を読まない』という言葉、かなり危険なのではないでしょうか。でも、残念ながら今は同じ言葉で使われているわけですよね。しかもマイナスイメージで。だから今後は『空気を読めない・読まない』ということ、これは必ずしも相対的に(その場の流れにとって)その人が悪と見られる場合はあっても、主体的な悪とは限らない、その場の空気自体が間違っているという可能性も考慮する必要があるのではないかと。

個人的には、前述のすき焼き屋のように個人の都合だけで露骨な迷惑をかける人には、もう少し別の言葉(そのまま「迷惑野郎」を示すもの)を割り当ててもいいのではないかと思います。そうすれば、空気を読めないという言葉自体は相対的な言葉として認識され、必ずしも絶対的な悪ではないとされるのではないかと思います。

というわけで、このブログはこれからも良い意味で「空気を読まずに」やっていこうと思います。

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