空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

ドラえもんはパラドックスを超越する

この前の『ドラえもんの凶悪道具『タイムふろしき』について考えてみる』で書き残したことを今のうちに書いておきます。

この前はタイムふろしきに触れましたが、文中でタイムふろしきにもパラドックスがあるということを指摘しました。それはこの部分。

そもそも物質を変化させるものだった場合、タイムふろしきというものは存在できなくなるのではないでしょうか。それは「タイムふろしきが時間の状態を変化させるならば、タイムふろしき自体も時間の変化に晒されるわけで、どちらもタイムふろしきという物質を構成する前の姿(原子?)、もしくはその物質を構成出来なくなった未来の姿(原子?)になってしまう」というパラドックスに引っかかってしまうからです。

しかしこのようなパラドックスを持つものは、何もタイムふろしきだけではありません。あの「ウソ8OO」や「ソノウソホント」もパラドックスに引っかかるのです。それはこの道具を使ってを使って「ソノウソホントは存在しない」(もしくは「ウソ8OOは存在する」)と言うだけ。ここでそれらの道具が効力を発揮すれば、その道具の効力が存在するという矛盾、逆に効力を発せず存在を消してしまったら、じゃあその存在を消したものは何故存在しないのに効力を発揮したの? という「嘘つきのパラドックス」的状況が発生します。このように、ドラえもんの道具はパラドックスの波に巻き込まれるものが多いのです。(参考:Wikipedia-パラドックス

『ドラえもん』の中でもそのパラドックスを利用した話はありますよね。代表的なのがオシシ仮面で有名な『あやうし!ライオン仮面』。あれは最後、ドラえもんが未来から持ってきたマンガを倒れたフニャコフニャオのかわりに描きながら、マンガの本当の作者は誰なんだろうと謎に思うシーンで終わります。これもタイムパラドックスですね。

それでは、ドラえもんの中で一番パラドックス的なものは何でしょうか。これはおそらくドラえもん自身でしょう。それはドラえもん自身が「タイムマシンのパラドックス」に引っかかるからです。つまり、タイムマシンがタイムマシンの発明された時より過去に行ってしまうと、その存在はない。ならばその時点でタイムマシンは消滅しなければならないはずというパラドックスです。いや、タイムマシンだけではありませんね。この考えで行くと、ドラえもん自身も猫型ロボットが発明されたより昔には存在できないはずです。ならばどうして20世紀にドラえもんは来られるのでしょうか。

それを考え直してみると、ひとつの仮定を思いつきました。それは「ドラえもんはパラドックスを超越している」と。いや、正確に言うと、「未来に作られたものは、パラドックスを超越している上に作られている(もしくは作られたからパラドックスを超越している)」ということ。

さて、有名なパラドックスに「ゼノンのパラドックス」(アキレスと亀)というのがあります。Wikipedia-ゼノンのパラドックスから引用すると、こんな感じ。

スタート後、アキレウスが地点 A に達した時には亀はアキレウスがそこに達するまでの時間分先に進んでいる(地点 B)。アキレウスが今度は地点 B に達したときには亀はまたその時間分先へ進む(地点 C)。同様にアキレウスが地点 C の時には亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレウスは亀に追いつけないことになる。

でも、実際にはアキレスは亀を抜かせます。たしかに数学的にはパラドックスですが、現実的に亀がアキレスに抜かされないと言うならば、一笑に付されるでしょう。ならドラえもんも同じことで、現実(もちろんドラえもんの中の現実ですが)がそうであるなら、それが真実であるということにならないでしょうか。つまりドラえもんがいる、ということがドラえもんの中の現実であるならばそれらのパラドックスは超越されたことにならないでしょうか。

おそらく、今判明しているものではパラドックスのように見えても、未来の思想ではそれが理論or実行によって解決されているものというのは多数あるような気がするのですよね。その上で多数の発明が生まれたという感じで。

余談ですが、パラドックスというのはあくまで理論で、現実的には例外を認めないなど相当限定的な条件でないと生まれないようになっています。「矛盾」も、最強の矛と最強の盾(同じ強度のもの)がぶつかりあったなら、その両者の加速度が弱かったら両方とも無事ですし(一応盾の勝ちですな)、強度を超える加速度が加わったら両方壊れるかでしょう(この場合一応矛の勝ちかな?)。ですので、結局のところそこにその存在があれば、パラドックスはすぐに超越されてしまうのではないかなと。


そんなわけで、ドラえもんの世界ではいくつもパラドックスらしき要素はありますが、それらは矛盾しないと言えるのではないかと思いました(でも、実際に「ソノウソホント」を使って存在しないと言ったらどうなったか(F先生はどういう処理をしたか)見たかった気もします)。

「お話だから」と切って捨ててはいけません。「そのお話がウソである」と証明できない限りは。この世で明らかになっている科学なんてものは、所詮現時点での人間の頭の中で考えられる範囲での科学でしかないのですから。ただ、この理論を宗教勧誘に使う人には気をつけましょうと、シメを台無しにして終わります。