空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

「感感俺俺」についてもう一度考えてみたい

ふとネットを巡回していると「感感俺俺」という言葉が目に入りました。これはご存じの方もいるとは思いますが、18禁ゲーム『誰彼』で使われた迷文としてオタ系のみならず、二重表現を揶揄するネット表現の一つとして広まっています。
ですが、今思うとこの言葉、本当にそこまで代表的になる迷文なのでしょうか? そもそも何でこんな言葉が生まれたのでしょうか? それを今日は考えてゆきたいと思います。ただ、私はこのゲームをやったことがないので、この一部だけ見たものとなっていますのでご了承ください。


はてなキーワードからの引用だと、該当部分は以下のような感じ。

「高子、よく、聞け……。
 お前がいまじている情は精神的疾患の一種だ。
 しずめる方法はが知っている。に任せろ」

よく使われるのは下の2行。赤の部分が二重表現になっています。たしかに二重表現は文章作成の上で避けたいものではあります。しかしこれ、前半はともかく、「しずめる方法はが知っている。に任せろ」はそんなに変な文章でしょうか? 


まず、ここでは途中文章が「。」で明確に区切られて2文となっています。1文の中で「俺」が2度使われているわけではないのです。このレベルならば普通によくあります。もっともそれがいいかどうかは場面によりますけど。ではここでの使われ方はどうでしょう。
これを平坦にそのまま読んでいたとすればあまり好ましいものではありません。しかし、この場合の「俺」は文面からかなり強調が必要なもののように思えるのですよね。最後が「俺に任せろ」ですから。ならばここで「俺」を2度使ったのは、強調の表現として正しいのではないでしょうか。

仮に演劇の脚本ならこんな感じ。

「しずめる方法は俺が知っている。」
((主人公名)、高子に近づいて、両肩に手を置いて目をじっと見つめる)
「俺に、任せろ」

こう考えるとあまり変なものでもないのではと。


じゃあもうひとつ、「お前がいまじている情は精神的疾患の一種だ」について。
これは、明らかに「感じている感情」が二重表現ですよね*1。まあこれは指摘があるのも無理はないです。でも、何でこんな表現が生まれたのか、そこから考えてみませんか?

以前『『リアル鬼ごっこ』文法は何故生まれたのか』において、二重表現が生まれる理由について書きました。簡単に言うと、文章を継ぎ足した時に、前に書いた同じ表現の存在を忘れて、ついつい二重に書いてしまうと。そして、それをなくすための見直しだとも。この「感じている感情」も同じ事が言えたのではないかと思うのです。つまり、「お前がいま感じているのは」という文と「その感情は精神的疾患の一種だ」をくっつけた時に、二重表現を残してしまったのではないかと。要は、書いた文章が変ではなくて、単なるチェックミスではないかと思うのですよ。

じゃあ何でそんなのが残ったのかというと、これも『リアル鬼ごっこ』と同じで、チェックする人がいなかったからではないかと。それに加え、当時のこのゲーム制作過程の情報を見てみると、かなり余裕のない状態で作られたと言われています。ゲーム開発的に言うと「チェック人員がいなかった(少なかった)」&「開発時間が少なく、チェック時間がほとんどなかった」のが、この文章をこのまま残してしまう原因になったのではないか、そう思うのです。

あと追加すると、このゲーム自体大作のあとで注目が集まっていたところに出たソフトだったので、ほかのソフトではスルーされるような注目も浴びてしまったという点もあると思われます。要は、この文章だけではなくて、さまざまな要因がこの「感感俺俺」を生み出してしまったのではないかと思うわけです。*2



以上のようなことを考えると、必ずしも残るほど非難される事例ではないような気がするのです*3

ただ、真実は分かりません。故にものの作り手は、出た作品が全てであり、それに対して言い訳はできないでしょう。ですが、見えないところではそれなりの事情がある可能性も高いということだけは、頭の隅に入れておくといいのではないかと思うのです。特にゲーム開発は共同作業です。それが完全に一人で作ったものでもない限り、功も罪も少なくとも外部からはひとりに集めることは出来ないと思うので。

*1:ついでに台詞読みにした場合は、さらに「疾患」の患が加わったりする

*2:おまけに「リアルリアリティ」なんて言葉もありますが、あれも「○○リアリティ」という言葉を作ったときに前を「リアル」書き換えたのに全体を見逃してしまったためにおきたものと推測できるような気がします。

*3:もっとも現代では非難事例というよりはネタとしてのみ使われている気がしますが。