「泣ける」イコール「感動」なのかという話

なんか『恋空』がいろんな意味で話題になっています。それは賛否両論。それでこんなエントリーを見つけました。

mixiのレビューで見る恋空読者の国語力(情報元:カトゆー家断絶さん)

タイトルは賛成に挑発的な感じですが、かなり調べられていて一読の価値があります。

さて、これや実際のAmazon、mixi、各ブログなどをざっと見てみると、賛成意見の多くは「感動した」「泣けた」というもので、反対意見の多くは「文章が稚拙」というもの。まあこれは今までの携帯小説の書籍化にもあったパターンですよね。

しかし、ここでもう一つ反対意見として、賛成の意見を逆にとった、「泣かせようとしているのが嫌い」というものがあります。そこで思い出されたのが、「涙の強盗」という言葉。

これは、伊集院光のラジオ『深夜の馬鹿力』で人死に、別れ、そういったもので涙を奪っていくようなシーンのある作品に言及するに当たって言われていたものです(ネットで調べてみると、みうらじゅんが提案だったらしいです。)。ちなみにこのラジオで伊集院光はよく最近の邦画(TBSラジオの関連会社のTBSの映画だったりすることが多い)で「泣けるよ、確かに泣けたよ。でもそのあとには何も残らない」という映画評をすることがあります。

さて、これに関連して気づいたこと。もしかしたら、上の賛成と反対の人では「感動」という言葉は意味合いが違うのではないかと。伊集院光の言うように、たしかにその作品内で人が死ねば悲しいに決まっています。別れれば悲しいに決まっています。そして涙も出ます。でもそれは心を動かされたものというよりは、その「泣ける記号」に対しての一種の条件反射なのですよね。さて、それを「感動」と呼ぶことが出来るか。それがそもそも前の賛成と反対の人の間では違うのではないかと思います。そこで反対に属する人のこの現象を差すのが前述の「涙の強盗」。この言葉はうまいなあと思います。

ま、ですのでこの「感動」の定義を定めないと、たとえ両者で議論しても平行線だろうなあと思います。ちなみに私は『恋空』に関しては読んでないのでなんとも言えませんが、押しつけ的な涙なんぞいらないです。


ちなみに、涙の強盗的作品と、そうじゃない、本当に心に残ったものとの見分け方と思うものをひとつ。その作品を数ヶ月後(流行ものならそれが終わった後)に思い出した時、何か心に残っていますか? もしそれが本当に感動した作品なら、何かしらが残っているように思えます。私の場合、はじめて読んでから10年以上経った『わたしは真悟』を読み返してもぞくぞくっとします。そしてこれらが本当に心に残った作品だと思うのです。

ですので、この『恋空』を数年後に思い出してもらって、それでも同じように心に残っていればそれはきっと「感動」できたのではないかと思うのです。実際に試してみたいところですね。いや、でも数年前にも携帯小説ではないけど同じような議論がなされたものがありましたよね。あれで議論してみれば面白いかも。だけど問題は、そう言った作品を具体的に思い出せないのですよね……


ま、いろいろ書きましたが、そういう「涙の強盗」的作品もあってもいいとは思います。ただ、それが小説なり作品全体を浸食してくると大問題なのですが。