藤子・F・不二雄SFマンガにおけるディストピアの現実化

私の場合、本棚に一度入れてしまったマンガを取り出すときは、その本の最新刊が出た時か、このようにエントリーで取りあげる時、そして急に読みたくなった時が多いです。で、上の3つによく当てはまり、本棚の前の方に置かれているのが岡崎二郎のSF作品と、藤子・F・不二雄作品だったりします。晒してもいいけど面白みがないからやめときますけど。
で、例によって最近『藤子・F・不二雄異色短編集』を読み返していたのですが、そこで思うことがありました。実は、このシリーズはわりと現実の社会問題を取り上げて、それのSF的展開で話を進めていくものがあります。例えば高齢化における家族問題を扱った『じじぬき』(文庫1巻)、人口増加とそこにおける人間愛の低下を扱った『間引き』(文庫1巻)、高齢化と食糧問題を扱った『定年退食』(文庫2巻)、未来の問題に対して総合的な皮肉のある『大予言』(2巻)など。これらが作成されたのはだいたい1970年代で、今から30年前です。しかし思うにこれらのマンガ、当時とは見る側の印象が変わっているのではないでしょうか。

昔に描かれたマンガが当時とは感じ方が違うってコトはよくあることです。残念ながら未だに高田馬場にアトムは生まれてませんし、イングラムも警視庁特車2課にもありません。ついでにソ連もありません。そしてこれは、特に時代を設定していないマンガでもよくあることです。例えばガキ大将はいませんし、黒電話を使っている人はまずいませんし、ポケベルもありません。給料も手渡しの方が少ないです。ドラえもんも当時とは微妙に異なって感じるところはあるでしょう(それでも全体的な違和感が少ないのはすごいと思いますが)。
しかし、ここで言うのはそういった物的なものではありません。なんというか……ちょっと説明が難しそうなので、前述の作品を引用して書いていこうと思います。

『間引き』という話は人口増で食料配給制が敷かれた社会で、あまりにも理由にならないことで簡単に血を見る事件が増えていた。そしてコインロッカーに赤ん坊を置き去りにするという事件も1日に10件近く。そしてある記者は、これの原因を「人口爆発」にあるという考えを話す。それは人口増により種族を保つための「愛」が自然の摂理によってなくなっている。それによってこういった事件が起こっていると。そして人口が適正になったときに人類は再び愛を取り戻せるかもしれないとも。そして最後は……
さて、現在昔と比べて理由もなく血を見る事件が増えていると感じるとは現実でも言われています(統計的にどうかは分からないのではっきりしたことは言えないのですが、ニュースを見ているとそう言える気が)。そしてこのお話での世界人口は45億人。2007年現在の世界人口は66億人超。

同じことは『定年退食』にも言えます。これは将来、老人に「二次定年」制度が設けられて、その年を過ぎると国からの一切の医療や食料の保障が打ち切られるという世界の話です。さすがに食料統制まではされていないものの、現実の年金問題やら高齢化問題やらを見ていると、この世界観が本当になりそうで恐怖を感じます。特に老人が座っているベンチに若者がやってきて席を譲れというシーンとか。最後の老人の『わしらの席は、もうどこにもないのさ』が……

これらは、昔ならば多少恐怖を感じても、一応寓話として考えられたはずです。しかし今では現実がその説得力を増してしまうということで、見方が変わっているのではないかと思うのです。


昔のSFには、時代が経って「昔はこんな未来像を描いていたのか」と外れたものに対してちょっとほほえましく思うものもあります。しかし、中にはこのようにあまりに現実に近くなり、恐怖を覚えるようなものも出てきたのではないかと。

何も藤子・F・不二雄マンガだけではなくて、星新一とか小松左京筒井康隆の昔に書かれた小説でも、似たような現象が起こっているのかもしれません。


私はディストピアものというのがわりと好きですが、ディストピアは虚構だから面白いんであって、現実では恐怖以外の何者でもないですな。


ミノタウロスの皿 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉) 気楽に殺ろうよ (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉)