空中の杜

旧名「空気を読まない中杜カズサ」。

本当は恐ろしいドラえもん〜のび太と死の宣告〜

なんか数年前に『本当は恐ろしいグリム童話 (ワニ文庫)』みたいなのが流行ったことがありましたよね。しかし、ドラえもんの中にもそんなシーンがあるのです。

有名なところでは「どんぶら粉」のラストで土の中に白目で埋まっているのび太とか「人間製造機」の人工生命とかですが、今日はそういった類のものではなくて、所謂デスノート的な暗黒面を紹介したいと思います。


ドラえもんで、たまにのび太がタイムマシンに乗っておばあちゃんに会いに行く回ってのがあるのはご存じでしょうか。これはどれものび太をやさしく包み込むおばあちゃんの優しさで、心温まるシーンが多いです。
しかしこれ、よく考えてみるとかなり残酷なことをしてるのではないでしょうか。ちょっと話の内容からそれの理由を説明してみましょう。


はじめて過去におばあちゃんに会いに行ったときの話の概要ですが、過去に行き、自分の家に入ったのび太は、若い頃のママやチビのび太に不審者として追い回されます。その時、まだ生きていたのび太のおばあちゃんは、その大人ののび太をかくまってくれます。
そして会話をするのですが、おばあちゃんが「私はもう歳だからいつお迎えが来ても〜」といった言葉を聞いて涙するのび太に、続けて「欲を言えばのびちゃんの入学式姿を一目みたいねえ」といいます。
そこでのび太がランドセルをしょって、「信じられないかもしれないけれど、僕、のび太です」と、自分が未来から来たことを告白して、それを受けいれたおばあちゃんとめでたしめでたし、ってな話です。(この後「結婚式も見たいねえ」とかいって、しずちゃんにお願いに行くオチ)


はい、いい話です。しかし、しかしですよ、これらの行為は暗に、「おばあちゃんはその歳まで生きられない」と、間接的に死の宣告をしてしまっているのではないでしょうか。つまり、のび太がいた時期(もしくは入学式、結婚の時期)にはすでにおばあちゃんはいないという。でなきゃのび太は前述の質問の折、「生きているよ」とか言うはずでしょう。

もっとひどいのはおじいちゃんの出てくる回で、その時は「(のび太の)パパの夢まくらに出てきた」と、現代では死んでいることをほぼ明示的に告げています。
ましてやその後、「(夢まくらの)責任取ってよ」と、おじいちゃんを現代のパパの枕元まで連れてゆき、「のび太に優しくしてやれ」と言わせます。そう、のび太は「その時代には生きていない」というのを、本人を幽霊(まあ夢まくらですが)にしてまで、本人に知らしめているのです。

もちろんのび太たちにはその意図は全くないのですが、子供故の無知が残酷な結果につながっています。


この後、おばあちゃんがらみの話はどれもいい話ばかりなのですが、16巻の『パパもあまえんぼ』の回では、間違いなく未来のその時代に自分がいないことを教えているようなものです。

となると、起き上がりこぼしの話が感動的な18巻『あの日あの時あのダルマ』では、もうここでの死を悟っていたと考えたほうがいいのかもしれません。


しかし、おばあちゃんはそれでも(少なくとものび太の前では)にこにことし続け、ランドセルを背負ってきたのび太に「お嫁さんを見たい」と言ったり、次に行った時も優しく迎え入れたりします。それは、死の時期を知っていながら、かなり強い精神力がないと出来ないことです。もしそうでなければ、のび太の存在、そして言葉を認めようとはしないはずです。
ドラえもんの中でも有数のいい人として語られるおばあちゃんですが、もし前述のことを理解していたとなると、おじいちゃんも含めて相当強い人だったのではないかと思うのです。

旧き良き日本の父と母の強さをここに見た気がします。